明日のたりないふたりに成れない僕へ。

最近Twitterが怖い。見たくない情報がたくさん飛び込んでくる。好きな人に対するものも、自分に対するものも。だから自分の考えみたいなものは、限られた人しか見ないであろうnoteに書き留めるようになり始めたのかもしれない。このnoteを読んでくれてる人はTwitter上よりも僕のことを悪く思ってない人の割合が高いと信じて。

前に見た直後の「明日のたりないふたり」の感想は消してしまった。それっぽいことを書きたいと思ったこと、「分かってるファン」みたいに思われたかったこと、山里さんが見てること、そして見られるかもしれないにしては感想が薄いなということ、そして周りの人に「こいつ、あれだけ好きって言ってたくせに感想薄いな」と思われること。全部恥ずかしくなった。だから消した。でもやっぱり形に残したくなった。薄いなと思われても仕方ない、それが僕の感受性、言語化する力、その他諸々の限界だと受け入れることにする。

散々言い訳してから書く割に普通のことしか書けないけど、温かい目で見てください。


まず思ったことは、あの漫才を方向性だけ決めて進める2人ってやっぱりすごい。山里さんは「俺は打ち返すだけだから」と言っていたが、即興であれだけ全部の球を打ち返すことのできる山里さんは天才なんだと思う。(もちろん若林さんも大変だしすごいのはわかっているつもり。)「これ、細かい台本ないんだ」そう思うだけでワクワクした。

「さよなら」の時に、山里さんが「武器を変える」と言った。僕は「おお!そうだよな。山ちゃん頑張れ!」と思った。「明日」では山里さんが「やっぱり竹槍が好き、これで戦う」と言った。僕は「おお!やっぱり山ちゃんはそうでないと!」と思った。文字に起こしても、ただ山里さんの言っていることをそのまま受け取っているだけで、中身が空っぽで恥ずかしい。

そして最後、たりない側で闘っていくと決めた2人。それを見て「たりない僕も、たりないまま生きていくぞ!」と思った。(少し過去の自分を擁護したい。そりゃあんなもの見せられた直後はこう思うよ。)

2人が「たりないままでもいい」って言ってるから「たりない側でもいいんだ」って、それでいいんだろうか。2人はたりないまま生きていく武器を、覚悟を持っているんだろう。それもないのに、たりない側でたりてる人生を妬んでどうなるのだろうか。武器もないのに、覚悟もないのに、ただただ最強のたりないふたりの影に隠れて自分も武器を持ったつもりになっている気がする。自分は浅くて、そのくせ周りには浅いのがバレたくなくて、なんなら深いと思われたくて、どうしようもなくダサいとつくづく思う。


「たりない側で、覚悟と武器を手に生きていく」という結論に辿り着くまでに、山里さんと若林さんでさえ10年以上かかった。それなのに、なぜ僕は自分も同じように武器を見つけ、覚悟を手にして生きていけると思ったのだろうか。

そもそも、僕にはまだ自分の「たりなさ」の輪郭がはっきりと見えていない。何がどうたりてないのか分からない。ぼんやりと「たりなさ」らしきものを自分の中に感じたりする時があるだけだし、「たりてる側」ではないなという感覚があるだけだ。そんな僕が、2人の生き様を見ただけで2人のように生きていける訳がないじゃないか。

だから、僕はまだまだ「たりてる側」へ行こうと足掻くと思う。カルロスゴーンみたく変装して、たりてる側へ忍び込んで、すぐバレて恥ずかしくなって「やっぱり違うな」と思って帰ってくることを繰り返すと思う。僕にはまだたりない側で生きる武器も覚悟もない。でも、「たりてる側」に行こうと足掻く中で自分の武器と覚悟が見つかるかもしれない。

その結果として見つかった武器や覚悟は、2人と同じように「たりない側で生きていく」ための武器や覚悟ではないのかもしれない。もちろん、2人の、山里さんの生き方はかっこいいし、憧れる。僕もそれくらい強くカッコいい生き方をしたい。でも、僕が将来手にするのは、たりてる側で誤魔化して生きるための武器や覚悟かもしれない。それはそれで良いじゃないか。それが僕が悩んでたどり着いた答えなら。

これから僕は、漠然とした「たりなさ」の輪郭を掴み、足掻いて悩み、武器と覚悟を見つけるだろう。このルートのどこまで進めるか分からない。漠然した「たりなさ」を感じたままかもしれない。でも、いつか僕が武器と覚悟に辿り着いて、その正体を確認できる日がくることを少し期待することにする。

僕はまだ「明日のたりないふたり」には成れない。もしかしたらずっとなれないかもしれない。自分の輪郭をハッキリと見つけられるまで。とりあえず、自分なりの考えが見つかるまで沢山考えて、沢山感じて、沢山言葉にしていきたい。




おまけ

山里さんが好きだということに間違いはない。でも、長年不毛な議論を聞いて山里さんを愛してきた人たちと比べるときっと浅い。比べる意味はないのに、そんな人たちと同等に山里さんを愛していると、周囲に、山里さんに思われたかった。でも、きっとそれは不可能だし、意味はないのだと思う。

きつかった浪人時代に周りへの嫉妬を肯定してくれた気がした山里さんが大好きなのは間違いない。嫉妬や妬みを、そのダークさを持ったまま笑いに変える姿にも憧れている。これに嘘はない。でも、他の人からの視線を意識して大好きな気持ちを表現しようとすると、それは嘘に変わると思う。これからは出来るだけ自分が感じることができた範囲に嘘はつかず、生きていけたら嬉しい。










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