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白光




近所の神社の樟を気に入り、少し前から散歩コースに追加した。しめ縄の巻かれた大きな木を見上げ、その葉が揺れるカサついた音を耳に染み込ませている間、私は私でない何かに似ている。このままここに根を生やし、私も木になりたいと思う。思うが、足は木にならないので仕方なく踵を返す。途中自販機でモンスターを買って家に着くまでに飲み干したが、大して胸がすくことはなかった。

私は何がしたいんだろう。
健全な生活をしたいのかその逆か、わからない。全部無かったことになりたいという我儘をずっと突き通しているような、私のはそういう人生だと思う。キツい飲み物を入れられた胃がキシキシと音を立てる。


帰宅してソファに体を沈めると、その正面の壁には沢山の絵がある。自他の作品を無作為に虫ピンで刺したその中の一つの絵、その内側にいる人は光に包まれ、どこか神々しささえ纏っていた。


白いものが好きなのかもしれない。つい先程火をつけた線香の煙が、不規則に揺れながら立ち上るのを目で追う。
白いもの、たとえば、寒さに白くなる息、タバコの煙、モネのかささぎ、曇りの海、雪原、光の当たる肌。そういうものを思い返す。内臓を揺すられるような居心地の悪さと、それすら内包してしまう強烈な安堵のようなものが込み上げてくる。


ここのところ、ぼうっとしていると一週間前まで働いていた部署にいた歳の近い人のことを考えている。
珍しい人だなというのが彼に対する率直な感想だった。騒がしいのが常である私の職場では、普段穏やかな人であっても忙殺されて言動が荒れることが間々ある。それはそういう物だと思いさして気に留めないよう努めているのだが、僅かに傷つき続けている自分がいるのも知っていた。

そんな場所で、彼は一際静かな人だった。その様子は上の人からやる気がないとか冷めているだとかそんな風に批評されているようだったが、本人は(見たところ)どこ吹く風という感じであった。人当たりは淡々としながらも棘のないもので、私があたふたとしていれば何も言わずそっと助けてくれた。例えるなら凪いだ湖面のような、そういう人がこの場所にいることが無性に嬉しかった。
どうしてこの仕事をしようと思ったのですか、どうして辞めないでいるのですかと聞きたかったが聞いたところで栓無きことかとやめにした。結局数える程しか話さないまま、今月また私は異動になった。


物思いから浮上した視線がまた壁の絵を捉える。一つの絵、雪の中で微笑む美しい人の絵。これもまた白だ。白いものは光を彷彿とさせる。

わかっている、こういう美しさがこの世にあるから、私は多分今日も文句を垂れながら仕事へ行くんだろう。足が木にならなくても何度でも神木を見上げ、恥ずかしくても息をし続ける。何をしたいのか、何がこんなに辛いのかいつまでもわからない。自分のことも周囲のことももうほとんどどうでもいいと思いながら、このクソ喰らえな世界にも確かにいる、彼のように静かな人たちが生きることを厭わないでいられる世界であってほしいなどとこれ見よがしに願ったりするのだ。
はは、何様だよ。