見出し画像

ひかり野へ 君なら蝶に乗れるだろう

ひかり野へ 君なら蝶に乗れるだろう
                -折笠美秋


四国に住む父方の祖父に最期に会ったのは2019年の年末でした。いつものように過ごし、美味しいご飯を食べさせてもらい、一泊だけして次の日には家に帰りました。その頃の祖父は身体が丈夫で、よく食べよく飲み、朝はいつも趣味のサイクリングで遠くまで走っていました。
その前は同年の8月に夏季休暇を利用して4日ほど滞在し、朝の海や小さな島、山奥の素麺屋や海に面した食堂に連れて行ってくれました。その食堂のテラスには海からの冷たい潮風が吹き、真夏にも関わらず外でも汗をかかずに食事をすることができました。大阪では考えられないなと驚いたことをよく覚えています。
感染症禍になってからというもの、コロナ患者の受け入れ病院で働く身としてのリスクを考え、落ち着いたら帰ろうと己に言い聞かせているうちに気が付けば2年近く経ってしまいました。
そしてようやく帰ることができたのは、祖父の葬儀の時でした。

末期癌と診断されてから暫くは通院での治療をしていましたが、元々病院嫌いだったこともあり、胸水による息苦しさが出始めた頃に往診に切り替えて以降、最期まで自宅で過ごしていました。いよいよ容態が悪くなってきているとの報せが8月末にあり、親戚と相談して帰る算段をつけていたのですが、帰省予定だった日の2日前、9月初めに祖父は鬼籍に入ってしまいました。癌が見つかってから2ヶ月余りでした。
葬儀は身内だけで静かに行われ、火葬場で収骨を待ちながら伯母さんや従姉と久しぶりに話をしました。祖父のベッドの側には私の送った手紙と同封した2年前の夏に彼が連れて行ってくれた海の写真があり、いつも見えるように置いて、手紙を読むのが辛くなってからは大きな声で読み上げるよう何度も頼まれていたのだと伯母さんが教えてくれました。その日はこの夏一番の大雨で、道路には川が生まれ、ずっと見たかった穏やかな海は黒く濁った飛沫を上げていました。

祖父が亡くなった頃、大阪では感染者数がピークに達し病院は殺伐としていました。何時間も残業する日が増え、私はミスを繰り返して迷惑をかけたりいろんな人に謝ってばかりいたのですが、葬儀が終わってからは心が上手く動かなくなってしまい、悲しみきれず、狂いきれず、中途半端に身動きの取れなくなった心を引きずる状態がしばらく続きました。ベッドに横になると決まって涙が出てきて、瞼を閉じた隙間から顔が濡れていく感覚が不快で堪らず、今自分が辛いのかどうかもわからず、毎日葬儀か仕事の夢を見ました。

祖父は私が看護師になってからもずっと連絡をくれていて、コロナ病棟で働いていたこの年始には蜜柑畑から見えた初日の出の写真を送ってくれました。少し前にようやく見返した祖父とのLINEにもいつも私の体調を気遣うメッセージばかりで、「くれぐれも無理だけはしないで下さいね」という言葉に今更ながら項垂れてしまいました。その様な生き方が自分にできるとは到底思えませんでした。

もう二度と会えないとは思いもせず、というよりもむしろ、そんなことにならないために帰るのをずっと我慢していたのに、それなのに、どうすればよかったのでしょうか。こういう答えの出ないことをこれから幾度となく考えるのだろうと思うと気が重くなります。どれだけそれらしい理由を考えても誰に励まされたとしても、祖父の最期に一度も会えなかったことに納得できる時はきっと来ないのです。
ただ、がん病棟で働いていると死亡確認に立ち会ったり死後処置を行うこともあり、その度に遅かれ早かれ人は死ぬのだなとごく当たり前のことを思います。
私は祖父のことを大切にしたくて、万が一にも自分の行動で相手の何かを損なったりしたくなくて、そしてこのような時代に田舎の親戚を持つ医療従事者として私は立っていて、そうして祖父も理から逸れることなく、死んでしまう人間でした。ここにあるのは、たったそれだけのことなのです。

いつ死んでもいいなと日常の節々で思っていたのが、このところはもっと早く死んでいればよかったなという気持ちに変わってきているのを自覚しています。これから先どんなに美しいものを目にしても、そういう絶望の重みに耐えきれなくなる日が必ず来るのだと思います。そう、私の身体にはこれからがあって、それが辛くて堪らないのです。
それでも、どれだけ惨めだとしてもこれが、祖父が心を掛けてくれた私という人間なのです。
早く楽になりたいという思いがどんな切実さでこの肩にのし掛かるとしても、命があるうちは粗末にせずに生きて、ちゃんとご飯を食べて一人でいる時間を愛して、元気に明るく生きていくことはできないにしても、卑屈にならず、自棄にならず、大切だと伝えてくれる人へ誠意のある態度をとりたいのです。祖父のためではありません。祖父はもう何にも脅かされることのない静かな場所にいって、今更私が何をしても報われたり報われなかったりはしません。これは、専ら祖父のことを大切だと思う私自身への餞です。
無理をしないで生きていくのは難しいかもしれないけれど、ご自愛ください、と言われたので可能な範囲で自愛します。いつか私にも死ぬ日が来るけれど、その舵を切るのが自分でなければいいと思っていたいのです。
これらの気持ちもいつか時間の流れに淘汰されていくのかもしれません。けれど、私が思い出したり書いたり声に出したりすることだけが私と祖父を繋いでいるわけじゃないと、目に見えないような、手触りも想像できないような、そういう場所で人は人のことを覚えているのだとも思います。
そうやってこれから少しずつ、私の中に祖父にしか通ることのできない道ができていくのでしょう。

ぼうっと夕方の街を歩いていたら、蝶が私の足の周りをぐるりと回って、また空高くへと飛んでいきました。あの海のような青色を背負った蝶でした。
祖父の船で沖釣りをした幼少期のことがふと思い出されます。その船は先端の船底が一部だけガラスの覗き窓になっていて、そこから水中を眺めるのがとても好きでした。私が中学に入る頃には祖父は船を売っていたので、もうかなり遠い記憶です。錆びたタラップを踏んだ時の音、波を乗り越える船、水中で日を浴びる魚の群れ。両手ではとうに数えられないほど昔のことなのに、未だにやさしい光を帯びています。当時を懐かしく思い返す時にだけ私はもう一度、今はどこか知らない海を往くかもしれないその船に乗り、潮風が身体を撫でていくのを感じられるように思います。
そこにはきっと祖父もいて、ゆるい格好で釣りでもしながら、私が再び船に乗り込むのを待ってくれているような気がします。