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太宰治の追悼文集

人が死んで、そのあとその人間が美化され偶像の様になってしまう一連を、何度か目にしたことがある。

この本を読む前に目を通したレビューには、この本からその様な印象を受けたと話している人もいた。
それ故に少々躊躇ったのだが、まぁ、読んでみないことには始まらないと思い、行きつけの古書店を覗いてみたら、殆ど新品とも思しき姿のこの文集を見つけた。
これは読めということだな、と決め込んで、そうして、のめり込むように読んだ。 


もとより、太宰は、人間に失格しては、いない。
太宰は通俗、常識のまッとうな典型的人間でありながら、ついに、その自覚をもつことができなかった。


追悼文集を読んでいて、流石は書くことを生業にしている人たちだ、人を鮮やかに書く術を知っている人の文章だ、と思った。
確かに、過度に着色しているような気配のするものもあった。しかし、そういう言葉の該当しないものの方が、幾分も多かったように私は思う。


やさしい奴だった。
夜が開け、帰郷する私を、三鷹の駅に見送ってくれた二重マントの彼は、まるで嵐に翼折られた大鴉に似ていた
実に純粋な一生だと思う。
中秋名月の空のように澄んだ生涯だと思う。


人が、人を思って書いた文章に、何ぞここまで引き込まれるのだろうか。


追悼文というと、もの思う葦の中にある「知らない人」という話と重なる部分がある。
あれには、とある(知らない)教授への追悼文が出てくるが、言うなれば、あの時の太宰が今の私だ。

追悼文集を読んでいると何故か落ち着いた。
誰かにこのような文章を書かせる人間が、いつだったか小説を読んだ私を立ち上がれぬほど泣かせた人間なのだから、私はなんだか可笑しくて、身体の位置をようやっと把握できたような、腑に落ちるような感覚を得た。私は恐らく嬉しかったのだ。太宰という人間の生きていた痕跡に触れることができて。

いろんな着色があるのだろうが、しかし、自分一人では到底このような多数の人間の語る太宰の様子など知る由もなかった筈であって、それに、私は手を合わせたい心持ちになる。


小さい、美しい奇蹟を、眼の前に見るような気がいたしました。奇蹟は、やはり在るのです。


これが、彼の言った奇蹟なのかもしれないなと、思う。