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ススキ野原

 あのとき、寝惚けている私の隣にほんとうにあの人がいたのだとしたら、あるいは、静かな終わりもあったのかもしれない。いつか話した夢の続きに、やさしい顔をしたあなたたちがいる。

 記憶がある。それは、水辺に走る古い電車。べロアの座席に腰かけてひっそりと居眠りをしている私は、車内に自分一人きりだと決め込んでいる。そうして、やわらかい日差しの中、友人の撮った山脈のススキ野原のことばかり考えて、時刻はわからないが、休日の午前中のような心持ちでいる。行先は決まっていて、そこには私のいやなものは何もない。その代わり、私の手放してきたもの、なくしてきたものどもが私の着くのを待っている。誰も急かしやしない。でも、早くいかなくては。目の裏にススキの揺れる黄金が通る。この風景が私の手を引くのだから、そこにあの人もいるのだろう。

 そうしているうちに見知った気配が私に近づいて、やさしく、恐ろしく、そしてどうしようもなくかなしい、そんな人の気配がいつからか、すぐそばにいることに気が付く。ほとんど反射的に目を開けようとするけれど、それが、なぜかできない。今度は触れてみようとして、それもできない。ただ薫る気配に何がなし泣きたい思いになるのを、ロを結んで堪えていることしか、できずにいた。喉には空気さえ通らず、私はその間、自分がどのように息をしているのかわからない。気配は私の隣に座り、肩を寄せる。それは言うなればあの人の皮膚であり、体温であり、そしてあの人の振動。涙の流れる残像が私の表面を通り抜け、中の湖へと伝っていくように思えた。いつまでも、溢れるのは形を持たないものたちばかり。私とあなたの間にはかなしいほどになんにもない。

やがてその気配は遠のいていってしまい、後に残ったのは、やはりススキのなびく音だけであった。

「                」

 ぬるくて冷たい液体が、見えないまま百遍も私の顎へと滑っていく。こんなに穏やかな日のうちに、こんなにかなしくなってしまうというのに、こうも懐かしく手放しがたい感情を私は、この車両の行きつく先で、きっと、もう一度手にはできない。それでいいと思っていたことを、私はすでにわからなくなりかけていた。

 いなくなった友人と最後に顔を合わせたとき、彼女は少し疲れた顔をしていた。もう会うことができないとわかっていて、さようならと言う度胸はなかった。私たちはお互いを囲む空気の温度を知っていて、そこに踏み込まないことで成り立つ距離にいて、そうしていくつかの穏やかな夢を、話すことができたのだ。私たち、どうしてこんなに生き難く、木端微塵の思いで、それなのに、生きていこうとしてしまうのだろう。いつか私の故郷の海を見せると言った約束は果たせないままで、いくつも開いたピアスの穴、その位置をもうはっきりと覚えていない。土足で踏み入らなかったことを、今は少しだけ後悔している。

 沢山のことを後ろに置いて、白けた顔で座っている。私を愚かだというのなら、この頭を容赦なく打ち抜いてくれ。ほんとうにそう思っているのに、抱えきれない記憶の重さに手放してなお、私を抱きしめる何かがある。捉え難い、私の中にあったはずの感情の幾つか。こぼれ落ちていくのは遠い日々ではなく私そのものだ。忘れることすらも美しいことだというのなら、差し出せるものなんて何も持っていない私を、眼差しの交点に置き去りにしないでくれ。この目に光るあのススキ野原の、その向こう側にいこうとした私の奥に潜む微かな振動。白昼夢というにはあまりに酷だ。なんにもないということが、それが、私たちの間にある空気を温めていた。こんなにも、死に適した日であるとしても。

「        」

そうっと開けた目の向かいには、淡く霞んだ古い車内。ゆっくりとした動きで錆びついた窓枠に手をかけ、外に身を乗り出した。霧が消えて、水辺の遠のいたススキの波に透ける、届かないということで完成された光の中で、私のいとしいものたちがたしかな濃度に埋没していく。いつか羽ばたいた二羽の鳥さえ、あの日の姿でわたしに笑う。なくしてなんかいないのだ。なくせるようなものなんて、初めからそこにはなかった。星の表面に触れるほどの重さを抱え、飛び立てるほどの軽い命を、抱きしめた、人の命の轍。金属に擦れる音がして、靴底が空を踏む。百一回目、ほんとうの温度が頬の上を通っていった。