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蟲の時間


蟲:
生と死の間、者と物の間にいるモノ。
陰より生まれ、陽と陰の境をたむろするモノ共。我々とは在り方の異なる命。
               ___蟲師より



胸のさざ波がしん、と凪ぐ。
蟲師のサウンドトラックを聴きながら、近所を散歩したり夕方の空を室外機に腰掛けて見つめていると、どこからともなくそういう瞬間が訪れる。その間は自分の身体の内側に、蟲の時間が流れているような気がする。
アスファルトの硬い感触は山の土のように柔く、排気ガスの匂いは草木のそれへ、信号機の軽快なメロディは野鳥の鳴き声へと変わってゆく。
神社に祀られた神木を見上げたときの様な、孤独であるということでさえ何の意味も持たない、あの広大な生き物の気配と、そこに流れる時間の厚さを思い出すのだ。



自分はとりわけ一人でいる時間のことを大事に扱って生きている。しかし何故かそういったことは、社会的に欠けたものとして捉えられる。一人で過ごすことも、本を読むことも、人に話して嫌な気持ちにならなかった方が少ない。それで結局、いつも適当な趣味をでっち上げる羽目になる。

全てにおいて品定めをされるのは、有意義で生産性のある健康的な人間でなければいけないという前提があるからだ。そうあることが正しく、それ以外は変わり者としてどこからともなく見下ろされる。
他人にどう思われようと今更知ったことではないが、自分の神域を踏み荒らされることが私は我慢ならない。当たり障りなく周囲に溶け込むためにありもしない自分の話をする。それに意味や意義を見出そうとするのはやめにしようと思いながらも、一人でいる時が一番自由で、その自由を守るという自分だけの大義のために嘘をつき続けている。


畏れや怒りに目を眩まされるな
皆 ただ それぞれが あるようにあるだけ
逃れられるものからは
知恵ある我々が逃れればいい
蟲師とは ずっと はるか古来から
その術を探してきた者達だ





明るく挨拶をして出勤しながら、更衣室で制服に着替えながら、出勤簿にサインをしながら、人と話しながら、何かに謝りながら、重い体を引きずって帰りながら、遠い場所のことをいつも思う。
鉄筋コンクリートの建物の中、自分が今踏み締めている床の下の柱の一部の鉱物が、いつか山として在った頃のことを途方もなく考えたりする。そうしている間だけは、人間としての憂さを少しばかり忘れられる。

本当は、十年後、二十年後、自分が生きているかどうかなど心底どうでもよかったのだ。いや、今でもそうだ。
目が覚めて朝が来たことを知り、部屋に差す光がこの肌を照らすこと、花が芽吹き、枯れてゆくこと、海の朝、夕日に照らされる目、雪原に舞う火の粉、森のうねりや命ならざるもの、目に見えないもの、そういうものだけを今、生きて感じることに心血を注ぎたい。

人間としての時間の流れには置き去りにされても、動物や植物、風、海、鉱物や天体に流れる時間の中になら、生きていられるような気がする。その時間を蟲師に擬えて、蟲の時間と呼んでいる。


この世に居てはならない場所など誰にもない
お前もだ
この世の全てがお前の居るべき場所なんだ




目に見えないものの存在を、見えずとも皮膚で感じる。この情報が溢れかえる世の中に生きていながら、自分の理解が及ばない不確かなものどもをこそ、尚も忘れずにいることを選びとる。大切に大切に手のひらの中に灯し続ける。それらも皆、ただあるようにあるだけなのだ。
社会の品定めから何度あぶれようと、不健全で気が触れていようとも、私も過不足などないただの私として、きっとここにある。

いつだったか、山で私の目の前をよぎった蛇をその山のヌシだと思ったこと、何物にも触れられず、何物にも触れられる私のこと。そういう場所。不確かで確かなものを信じようとする私のことを信じたい。信じていいのだと、静かに語りかけてくれる、蟲の時間。
ふたつめの瞼を閉じればいつも、私の足元深くに光脈は流れている。