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祝福

日の出前や日の入り後の、短い青色の時間がとても好きです。ブルーアワーと呼ぶのだと少し前に知りました。美しい瞬間です。美しい瞬間ですが、こういう美しさをこの先どれだけ目にしたとしても、草臥れた精神は治らないのだということを真に理解したのは実は結構最近のことだと思います。

恋人の部屋で暮らすようになって半年が経ちました。自分の部屋には時折物を取りに帰るくらいしか立ち寄らなくなり、もうすぐ手放す予定です。二人で暮らすには狭い部屋で、人と暮らすなどもう御免だと思っていた私が暮らせています。相変わらず定期的に発狂しそうになったり鬱々とした状態に陥ってしまいますが、彼はいい感じに放置していてくれるのでそれがかえって有り難いです。それでいて、基本的に自棄な気持ちで生活している私に「なんでも一人でしようとするな」「自分を縛るな」とまっすぐに伝えてくれ、一度もどうでもいいと笑ったりしないでいてくれました。彼は自分のことを別に優しいわけじゃないと言うので、それがどれだけ優しい人間がすることなのか、彼自身にわかってもらうのは難しいことのような気がします。


いくつになっても、自分を顧みることを怠ると膿んでいく傷口というものが多かれ少なかれ人にはあります。治し方もわからない、そもそも治したいとすら思えないような、そういう傷口をこれからも抱えて、ずっとそれに気を遣って生きていくのかもしれない。でも別に、許されたいだなんて嘘をつきながら結局許されないことを選んでしまっても、穏やかな日々を望んでも良かったのですね。気が翳るのなら日陰にいればいいだけだった。死にたいと言いながら、美しいブルーアワーを見に原付を走らせることこそが人生なのかもしれません。美しさは私を治さないけれど、遠くを思い出させてくれる。白い海、盆地の夕焼け、朝方の青に包まれた山や川、真冬の夜に田んぼの真ん中で原付に跨って見上げた流星群。大した願いもないくせに流れ星を見ると涙が出そうになるのはどうしてでしょうか。


感染症禍での、もう何度目かもわからない大波に揺られながら仕事をしています。やってられっか〜と思ったり口に出したりしながら、ふとこの生活がいつまで続くのか当て所ない気持ちになることがあります。これはたぶん医療現場だけではなく、感染症があろうとなかろうと普遍的に人を悩ませることだと思いますが、やり場のない鬱憤が長い時をかけて人々の腹の奥に込み上げて、色々な小さい諍いを呼んでいるような気がします。なんか全部がいい感じにならないかなと完全に手綱を放り出した状態で他力本願。持てるものには限りがあるし、手綱は放せるなら放した方がいい気がする。でも多分そうもいかない人はいて、そういう人に言ったら怒られるのでしょうか。気が重い。


何かに疲れて手を止めると時々、6月に赴いた豊島のことを思い出します。坂を登った先にある豊島美術館、穏やかな海、木々、そして母型。今この瞬間にも母型の中ではリボンが光と風を受けてはためき、地面からは水がふつふつと湧いているのでしょう。そのことを思う瞬間だけは不思議と、全てから放たれているような気がします。遠く離れていても、母型の中で見た祝福は今も私の側にあるのです。

「あなたといるときの自分が一番好きです」と言ってくれた優しいあなたは、誰にでも優しいわけじゃなくて、私を選んでそうしてくれているのだとちゃんとわかっています。あなたが大切にしようとしてくれる私のことを、いつか私も愛せるでしょうか。その時私は、どんな顔であなたの隣に立っているのでしょうか。