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星の屑から

10月21日、午前5時18分。
南西の空からシリウスよりも明るく見えるISS(国際宇宙ステーション)がゆっくりと上空へ向かって弧を描き、2、3分かけて北の地平へと消えていった。星と同じように見えるあの場所にも人間がいるのだと、そう思うだけで高揚してしまう。そうこうしているうちに夜が明けて辺りが白み始めた。暗さに慣れた目にはそれが嫌に眩しくてすぐに室内へと戻った。


遅めの夏季休暇のつもりが流行り病に罹ってしまい、思いがけない長期休暇となった。喉の激痛と高熱に耐えながら「人の喉ってこんなに痛くなれるんだな…」と思っていたのも束の間、ようやく声が出るようになり体調が改善した今は「あんなに痛かったのに治るもんなんだな…」と思っている。
日頃から医療に触れているものの、人体とは本当に不思議なものだという新鮮な驚きは絶えない。百数十億年前の星の爆発から遥かな時を経て、そのときの星の死骸から生まれたらしい私たちも正しく宇宙の一部なのだろう。


動けるようになってからは時間の許す限り本を読み、絵を描き、早朝に起きて天体観測をしたりしている。安めの双眼鏡でも月の海やクレーターはそれなりに見えるので面白い。
今は病院に勤めているが昔は医療への関心はなく、小中学生の頃は天文学者に憧れていた。ただ星が好きなだけの漠然とした夢で、結局は自立と安定を捨てきれなかったためにその道に進むことはなかったが、今でも夜空を眺めたり宇宙に関する本を読むことは好きだ。辛いことがあるたびに深夜家を抜け出してみたり窓から足を放り出して夜空を見上げていて、今思うとそれが数少ない安息の時間だった。


この世界、というよりもこの社会ではおぞましいことは割と普通に起きるが、それにあんぐりと口を開けて取り乱したりする余裕を持ち合わせている人間はどのくらいいるのだろう。歳を重ねても人と生活を共にするようになってもなす術のないことばかりだ。特に死ぬ理由がないから生きてはいるが、生きていたいかという問いへの答えはずっと「別にそんなことはない」といった具合だ。日が落ちて上ってをあと何万回か繰り返せばこのままならない感じもどうにかなったりするのだろうか。星にとっては一瞬にも満たないような短い時間も、人に擬えると果てしなく長く感じられる。


これを読んでいるあなたの目には、夜空はどのように写っているだろう。真っ暗、点々模様、ただの月とその他?さっぱり興味のない人もきっといる。
なのにどうして、私は夜空を見上げてしまうのだろうか。宇宙に行きたいわけでもすべてを証明する物理法則が知りたいわけでもない、ただ、季節と共に移ろっていく星の動きを追いかけていたい。というか、追いかけずにいられない。数日前のオリオン座流星群は曇っていて見えなかったが、雲が遮ろうと流星群は熱を放ち、光る。遠いどこかで星が生まれ死んでいく。青々とした昼中にも頭上で星は瞬いているのだ。嗚呼、その事実のなんと香しいことか!


人生という二文字に吐き気を催していたあの頃、不意に目にした流れ星に涙が止まらなくなった夜があった。あれからずっと月日は動き続け、もう十数年が経つ。この先も色んなことを許せないまま、多分普通に色んなことがままならないまま死んでいくのだろう。別にそれでいいじゃないか。過剰な自意識が頭をもたげていてもいい。

星々は今も昔も光をたたえていて、私はその引力に取り憑かれているのかもしれない。脆いタルト生地みたいな、触れようとした側から崩れ落ちるような生活に落ちた、たった一回の流星が今日の私を慰めている。

そしてまた明日になれば夜空を見上げているのだ。延々と、けれど永遠ではなく、星が終わるように私もいつか終わっていく。星の屑から生まれ、また屑へと還っていく、ここにあるのはたったそれだけのことで、生きるも死ぬも、本当は心底興味のないただの状態でしかないのだ。