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人生最後の乾杯

お酒と言って思い付くのは晩酌で、晩酌で思い出すものは、一番小さいサイズの缶ビール、ワンカップの焼酎、煙草のわかばやゴールデンバット、短くなったそれを詰めるキセル…などですが、私自身は下戸です。

母方の血筋はかなりイケる口の人が多かったらしく、30年程前に亡くなった明治生まれの祖父は、毎日晩酌をかかさない人でした。
夏ならまだ空の明るい夕方から、焼酎のビール割りや牛乳割りなどを、コップ一杯ちびりちびりやっていました。

祖父は戦後ラバウルから帰国し、その後マラリアにかかったり大変なことが色々あり、そして緑内障で失明しました。
しかしとても前向きな人で、働いていた祖母に代わり、部屋の掃除や手洗いでの洗濯、住んでいた市営団地の庭のたくさんの植物たちの世話(それは見事に花々は咲き、イチジクやザクロの実もたくさんなっていました)も丁寧にやっていました。

祖父は、娘たちが土曜日の昼などに学校から帰宅すると食事を作り(それはトマト炒めご飯だったそうです)娘の誰かと一緒に自転車を押しての行商のようなこともし、ある時はテレビが映らないからと屋根のアンテナを調整したり(落下し痛みで寝込みましたが無事でした)何でもやっていました。

頑固な面(肥後もっこす)はありましたが、優しく頼りがいがあり、女系家系の中でいてくれるだけで安心感があり、私も大好きでした(祖父の娘たちは三人とも離婚経験者で孫も女の子だけ)。

私は幼少時から祖父の家に行くと、いつも火鉢の前で愛用のラジオを聞いている姿を眺め、晩酌のときも物珍しくよく見ていました。
コップにゆっくり口をつけるとまずチュッチュッとすすり、つまみは枝豆やプロセスチーズや鰻の骨のスナック、フライドビーンズなど、入れ歯は嫌いと歯の少ない口でもじっくりゆっくり味わっていました。

大正生まれの祖母は、父親が庄屋さんでしたが酒のせいで家を潰したそうで、祖母自身はそのせいで売られかけたり苦労があったと、酒呑みが大嫌いでした。
なので晩酌の支度を毎日していましたが、あまり気が進んでやってはいないと、私が見ていてもわかりました。
「じいちゃんとの見合いの席で、お酒は呑みません!て言うたとに騙された」と憎々しげにずっと言っていました。

祖父は彫りの深い顔立ちでスタイルもよかったので、若い時はずいぶんモテたらしく、知らない女の人が家までついて来て、祖母を驚かせたりもあったそうです。
少々女性と遊んだりもしていたらしく、近所の人にその現場を教えられた祖母は「そのおなごの髪でん指でんうち切ってやるばい!」とハサミを手に乗り込んだりもしたそうで…
「自分が視えなくなったのは女遊びのしすぎでバチがあたったせい」と祖父は自分で言っていました。

私たち孫はよくシーソー遊びで膝に乗り、たくさん遊んでもらいました。
質素な暮らしぶりで、ご飯にはいつも麦を混ぜ、おかずは一品か味噌汁しかいらない。
ちり紙は、たたんで折り返して無駄なく使う。
祖母がいきなり団子を作るときは、祖父が生地をこねる係でした。
ご先祖や先に亡くなった兄弟たちや両親をとても大事に思っていて、また一人残った者としての使命もあるようで、お墓参りもお寺へのお礼もかかしませんでした。
仏壇へ毎日参り、「オレは100まで生きるばい」と笑顔で口にしており、私たちもきっとそうに違いない、となんの不安もなく信じていました。

ある年のお盆が近づいた頃、祖父は体調を崩して、母が胃カメラに連れて行ったり、不穏な様子になっていきました。
数日後祖母から「とうちゃんが起きれんごつなった」と連絡があり、皆で慌ててかけつけました。
布団の上で、険しく青い顔で寝ている祖父がいました。
祖父の口ぐせは「病院は好かん、もし入院で寝たきりなんかになるなら自分で死ぬ」でしたが、意識は明らかにないようで、母と叔母たちはどうしたものかと話していました。

今でもあの時のことは不思議なのですが、救急車を呼んでいい状態だったのに、何かの強い意志、きっとそれは祖父だったと思うのですが、母や叔母、孫である私たち姉妹や従姉も、誰にもそれを思いつかせない何かに場の空気は支配されていたと思います。

しばらくすると、祖父がむくりと起き上がりました。
「えっ」皆驚きましたが「とうちゃん!」「じいちゃん!」と呼び掛けても返事はありません。

その時一番近くに座っていた私の膝に、祖父はゆっくりと手をかけ、何やら動作を始めました。
ゆっくりと何かを取り出し、マッチをするような仕草、何かを口に運びゆっくりゆっくり吸い込み、ふーーー……と吐き出す。
「煙草ば吸いよらすばい!」叔母が嬉しそうに言いました。
わー本当だ…皆で嬉しくそれを眺めます。
一服した後は、またゆっくり、コップのようなものを持つ仕草、そしてそれを少しだけ、杯を静かに上げたように私には見えました。

「乾杯した…?」
横で見ていた私は、祖父のいつもの仕草にそれが加わったことを、不思議に感じていました。
チュッチュッと、少しずつゆっくり呑む仕草。
祖父の顔には微笑みが浮かんでいます。
その満足そうな穏やかな顔を、皆でただ静かに見つめていました。

セミの鳴き声がひときわ大きくなったと思った瞬間、いきなり祖父がバタン!と倒れました。
そしてすごいイビキをかきはじめました。

何かがプツンと切れ、「とうちゃん、イヤ!」母が叫び必死に呼び掛けます。
泣き出す叔母たちや従姉、そこでやっと救急車を呼びました。

運ばれた救急病院で、色々な機械に繋がれた祖父を見て、お別れが近いことを皆悟りました。
ピッピッと鳴る心電図が、少しずつ波形を刻まなくなり…ひときわ長いピーーーー……という音が響き、祖父の心臓は止まりました。

じいちゃんが亡くなった…悲しみで涙が止まらない中、「…えっ、嘘だろ」「いや、信じられない」というお医者さまと看護士さんたちの声が聞こえてきました。母に何かを話されています。

「じいちゃん、体中の血液がほとんど残ってなかったって」
こちらに来た母が静かに言いました。
祖父の死因は、腸が破れて出血が続いていただろうということ。
下血が相当あっていたはずですが、祖母は全く気づいておらず、祖父が悟られないように、トイレの掃除を視えていないのに念入りにしていたであろうことしか、考えられませんでした。
それ以外は健康だったそうですが、戦時中に出征するときに、盲腸の痛みをモルヒネで散らして行ってそのままだった古傷も関係していたようでした。

祖父が前日まで腹痛を訴えながらも「墓参りに行かなんけん」と、繰り返し繰り返し言っていたと聞いたお医者さまは「明治の人は強かですね」そう言葉をかけてくれたそうです。

自分で決めていたように入院せず、祖父は亡くなりました。
最後にいつものように、煙草を吸い晩酌もして、違っていたのは小さな乾杯をしたことで、私にはそれが大変な時代を生きて人生を全うして、この世に別れを告げて行ったことだと今でも思えてなりません。
いろんな場面での乾杯がありますが、私にとって乾杯といえば祖父のそれです。

普段の生活のふとした時に、頭に浮かぶことがあります。
自分はいつか来る人生最後のとき、自分で自分に杯を上げることができるのか。
自分はダメだなと思ったり、疲れたなと思うとき、…じいちゃんの孫だからこれくらいじゃ負けとられんよね…と。

いつか私が祖父たちのいるところに行くときは、祖母や叔母たちと迎えに来てほしいし、この世でないなら私も一緒にお酒も呑めるかな、と考えたりします。
じゃあ、あちらに行くのもきっと怖くないから、とにかく私なりに頑張って生きよう、と夏は特に思いながら、また今年も過ごしています。

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