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他人と共に生きる

ずっと考えていた。
経験も知識も考え方もすべて違う他人とともに生きるとはどういうことなんだろう。

誰かが言っていたけど、多様性とは、他人が受け入れ難いくらい違うということであると。

ちがうよ!って人もいるかもしれないけど、私は結構これわかるって思って。
私が見たのは、駅にホームレスのおばあさんがいて、そのおばあさんをヤンキーがいじめていた。
おばあさんは奇声を発して抵抗していた。

わかんないけど、おばあさんは不幸が重なったら未来の私かもしれない。
ヤンキーはきっと、自分のうっ憤を晴らすためか、または仲間内で権威を示すためにそのようなことをしていたのかもしれない。

そう推測することはできる。でも。今の私と置かれている状況があまりに違くて、私はホームレスという状況になって外で過ごして、という状況になった時の気持ちを理解できない。
ホームレスのおばあさんをいじめようというヤンキーの気持ちも理解できない。私はこのヤンキーの行動を受け入れられない。
なぜ放っておいてやれないんだと怒りがわいた。

その人たちと同じように生きたら気持ちが分かるかもしれないけど、違うように生きてきたからわからない。


バイトで出会った女子高校生。
初対面なのに、彼氏に甘噛みされて痛いという話とか、私はメンタルが弱くて何々という疾患があって…という話をしてきた。

彼氏がいるのに、他のバイト先の男性に密着していた。

私にはわからない。


そういうわからなさって、普段否定していないけど受け入れているわけではなくて、無関心だから受け入れているように見えるだけだと思った。
それに、絶対に受け入れられない違いもある。
人は大体そんな感じなのに、協力して社会を作っているからすごい。


花屋でバイトした時、年配のご主人と奥さんの会話を聞いて思った。
めちゃくちゃどうでもいい話をしているな…
二人は、お葬式の文化の違いとかの話とか、雑草の話をしていた

これは、いい意味なのである。
つまり会話に思想がないということ。

一つ例を挙げる。

宮崎駿監督と高畑勲監督の話。
宮崎駿監督と高畑勲監督は、何十年も共に過ごしてきた。
あるときは子弟、あるときは同胞、あるときはライバル。絆は強いが愛憎渦巻く複雑な関係。

宮崎駿監督は、高畑勲監督の映画の作り方を批判する。
高畑勲監督は、宮崎駿監督の映画の作り方を批判する。

でも宮崎駿監督は、高畑勲の夢しか見ないというほど大好きなのである。

大好きだけど憎い時もあるし、否定したいこともあるし、でも一緒にいたい。

そういう二人はどういう話をするか。
二人は、池にいたヒキガエルの話をしたりする。
宮崎監督が大好きな飛行機のパーツを見せたりとか。

わかる?
つまり、思想や主義主張が入った話をしないの。
二人にとって映画は人生を通して行ってきた仕事だよね。
でもそういう話しないの。

私は花屋の二人と、この監督の話を聞いて、そういうことかって思った。

絶対に他人は違うんだ。それは生きてきた環境や考え方など、いろいろなものが違うから。
でも一緒にいる。
共に過ごす。

仲がいい、だけじゃなくても。
社会を共に作る。
共に生きる。

そのためのひとつの方法を学んだ。


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