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トラウマ、現実の過酷さ、人間の未熟さと素晴らしさ


最近は、勉強のトラウマに向き合うことに精を出している。もう1ヶ月くらいやってる。しんどい。トラウマを処理するのは本当に疲れる。
EDMRを受けたり、自分で暴露療法をしたりしてる。

トラウマに向き合うということは、現実を受け入れていくってこと。
知りたくないこととかも、理解しなくちゃいけなくて、痛みを伴う。
昔の記憶や感情と共に悲観的になっても、ニヒリズムに飲み込まれてはいけない。最終的にはフラットになることが目標だから。

あれは何だったのか、私はどう感じたのか、客観的に見たら何が起こっていたのか、何回も何回も考えて話す。記憶が蘇って整理されていく。そうすると感情がとれていって別の考え方ができるようになっていく。

この記憶も無くなっていたんだと気がつく。ずっとあの人の顔を思い出せなかったのに、久しぶりに思い出したとか。勉強で、模試を受けたあの部屋の風景とか、私はポジティブなことも受け取っていたんだなと思い出したりする。

回避していたものに少しずつ触れることができるようになっていく。勉強法についての動画が見れるようになったり、専門学校のHPにアクセスできるようになったり。いろいろ。

私はずっと恐怖が強かったけど、EMDRを受けて怖さがとれた。EDMRはすごかった。あんなに怖かったのに次の日には怖くなくなってたから。
でも、次は嫌だっていう気持ちが出てきた。
あと2回受けるから、その中で良くなっていけばいいな。

客観的になれば、私が何に苦しんでいたのかわかってくる。わかってくると、私が持っていた幻想とか、大人の限界とかが見えてくる。
それを受け入れた上で、私はどう生きていきたいのか考える。

そういえば最近東海オンエアがやばいことになっている。
私は8年前くらいからずっと見てるからかなりショックだった。

自分のトラウマの状況と重なるところがあるなって思う。
トラウマの時って本当に、ああいうかんじなんだよね。混乱、混沌、何が起こっているのか、なぜこうなったのかよくわからないのだけど、苦しんでる人がいる。

それを整理していけば、誰かの未熟さが人を追い詰めていることに気がつく。1人じゃなくて、色んな人のちょっとずつの未熟さが人を傷つける。
もちろん、本人も未熟である。

そんなのじゃあどうしたらいいんだよってすごい思った。
人には限界があるし、いつまでも間違えるし、老いて死ぬから。完璧な人間なんかいないし、完璧な組織なんかない。
どんなに頑張っても傷つくことはある。
しばゆーも傷ついているけど、周りの人も傷ついてるはずだし。

人の限界を受け入れると絶望する。どうしたらいいのかわからなくなる。
でも、向き合える人は未熟さに向き合っていくしかない。

人は愚かだけど、ときに素晴らしいこともする。
エンタメは人の生活を彩るし、医療の進歩は命を救うし。
人は協働して、分業し、これでもかなり生きやすい世の中になった。日本では身体的な病気、飢餓、戦争は、昔より身近なものではなくなった。

現実を生きる過酷さというのは、誰かが引き起こしたものではなくて、この世の理なんだと思う。
生きるのは苦行だと、この世は地獄だと言った人もいるが本当にそうだ。

でも同時に生きているからこそできることがある。人と触れ合う時の楽しさもある。

現実の辛い部分も、素晴らしい部分も受け入れた上で、ニヒリズムに傾倒せずに、真っ直ぐに行きたいと望んでいるけど、かなり難しい。

自分にできることは何もないのではないかと思うことがある。でもそれは自分を誤魔化している。どれだけ小さいことでも、人のすることは人に影響を与える。そういう小さいことの積み重ねで世の中は回る。

人の存在意義というのは、何かができるからとかじゃないというのは最近思ってきた。
人が生きているというのは、水面に落ちる雫のようなもので、それが波紋を広げて、誰かに干渉していく。
いい悪いではなくて、その影響がどうなるのか自分にはわからないが、それの集まりが人の社会なんだということだ。

自分でも言いたいことを的確に表せているかわからない。まだ自分の軸が固まってないんだけど、このトラウマが落ち着いてきたらまた動き出せると思う。

トラウマは本当にしんどい。
人を見て、現実を見てると本当にしんどくなる。
でもそれと同じくらい、自分は人に生かされている

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