5.私たちは普通の家族です

【この話は5話目です。まだ読んでいない方は
1話目からご覧ください゚・*:.。❁】

中学後半から、遅めの反抗期真っ盛り。
特に受験の時期は何を言われても
突っぱねて、少しでも
イラつくことがあれば無視。
自分でもどうしてあんなに反抗してたのか
分かりませんでした。

むしろ、反抗する度に心が痛み、
泣きたくなる

自分を育ててくれた親に
あんなに悲しい顔をさせて、
何がしたいんだろう。

そんなふうに思っているのに、なぜか
冷たく接してしまう自分が嫌いでした。

この頃から突然周りの人が怖くなり、
電車に乗ると
全員が自分の悪口を言っているような錯覚に陥っていました。

自己肯定感がとても低かったのです。
あの頃の私は少し精神的にもおかしかったのかもしれないと今となって思います。

父はこの頃、表情も豊かになり
会話ができるようになってきました。
時系列がごちゃごちゃになったり
上手く伝わらないことも多々あるが
以前までの、突発的な言動や
怒りによって暴れるなどもほぼ無くなり
落ち着いてきました。

一方私は高校に入学し
反抗期は加速していきました。
会話は全くなくなり、
私はあまり家に帰らなくなりました。

「なんで帰ってこないの?
家族仲良く団欒しようよ」

何度も言われたけど無視し続けていました。
帰って来たら「あれしてない、これやったの」と注意される。

何か怒られるたびに、苛立っては無視し、無視していることを怒られるとティッシュの箱やリモコンを投げるなんてことも。
なかなかに荒れていたと思います。

ある時、母から強めに

「なんで帰らないの?どこほっつき歩いてるの?家事もやらないしいい加減にしなさい!」

当然のことを言われました。
でも私はまた、言い返してしまいます。

「私にとってここは居場所じゃないから。
心が落ち着けないから、帰る場所だと思ってない。だいたいあれだけ小さい時、私のこと放っておいて、何を今更母親ぶってるの?」

そんなきつい言葉がでてきてしまったのです。
母は、驚いた後悲しい顔をしました。

「ママがあんたを放っておいたの?」

「そう。私が小学3年生の時からずっと。
毎日毎日帰りが遅くて、ママが帰ってくるまでひとりで待ってた。寂しかった。
学校でいじめられてもいやなことが
あっても言えなかった!!
夏休みや、小さい時お出かけなんてしたこともないし、楽しい思い出がない。

わたしが何をしてるのか、
何にハマって何が好きで何を目指してるのか
何も知らないくせに。
自分の気になる私の嫌なところばっかり
指摘してきて。

今更母親ぶらないでよ!!!!」

近くにあった椅子を思いっきり倒しました。

気づいたら声が大きくなっていました。
よくないことを言っているのはわかっている。

しょうがなかったのも、
全部私たちのためだっていうのも
わかっている。でも出てきてしまう言葉。


母は涙を流しました。
あれだけ強く何があっても
泣かない母をなかせた私。

(ごめんなさい。ごめんなさい。
本当はすごく感謝してるの。
いつもごめんなさい。
こんなこと言いたかったわけじゃない。)

そして母が口を開きました。

「あのね。あなたにそんな思いさせてたのは
謝る。ごめんね。

でもねこれでも努力はしてたつもりだった。
パパが事故にあってから
しばらくして職場変えたでしょ。
わざと小学校の通学路にあるところにしたの。

帰ってくる時見えるように。
歩き方で今日元気ないな。
寂しそうに一人で帰ってるな。
友達となんかあったかな。
今日はちゃんと笑ってるな。
いつも見てたよ。

何かあったらここに駆け込んで来れるように。
鍵を忘れても、いつでも取りに来て
一人外で待つなんて寂しい思い
させないように。
仕事しながらだっていつでも
あなたのことばっかり考えてたよ。」

職場を変えた理由がまさか
自分にあったなんて
思ってもいなかったので衝撃でした。
そしてより一層自分の発言を悔やみました。

そうだ、母は本当によく私を見てくれていた。
お弁当だって毎日欠かさず
早起きして作ってくれて
塾への送り迎えもしてくれた。
制服の取れかかったボタンも
気づいたら直してくれていた。
体育祭の衣装だって
夜中までミシンをかけてくれていた。

部活の大会だっていつだってどこまででも
応援に来てくれた。
それもあの父を連れて。
きっと公共機関をつかって連れてくるのは
簡単なことではなかっただろう。

それでもあなたの父親だから、と。

ふと全てを思い出し
声を上げて子どもみたいに
大泣きしました。

素直に謝ることができず、
次の日手紙を書き気持ちを伝えました。
その日から少しずつ帰るようになり、
学校であったことをなるべく話すようになり
家族の会話は少しずつ戻っていったのです。


長い長い反抗期を終える頃には
もう高校三年生。
大学受験は夏休みにAO入試で
無事に合格し私は保育士になる時を
夢見て胸をときめかせていました。


大学生活は怒涛の2年間でした。
短期大学だったので、
2年に全てをつめこみます。

大学の学費は、学資保険の満期保険金で
なんとかしました。
というよりは、なんとかなる大学にしました。

日々の授業は自身の夢のためだったのもあるし、級友たちにも恵まれていたので
楽しく過ごしましたが、大きな難関。

実習期間にさしかかりました。

保育士になるためには
保育所や幼稚園、障害者施設や
児童養護施設に数回実習に行かなくては
なりません。

初めての実習でわたしは、
施設に泊まりがけで実習に行きました。
約2週間。初めてこんなに
家を空けるので家族でソワソワしていました。

実習当日。
一日目は分からないながらにメモを取ったり
ひたすら掃除をして、必死に終え、
夜な夜な日誌を書き、明日起きれるのか不安に思いながら寝ました。
すると朝父から電話がかかってきたのです。

何かと思ってでてみると
「ちゃんと起きれてるかなと思って」

ビックリしました。
父が電話をかけてきてくれた。
父親として、心配してくれているのかと
思うと嬉しくなりました。

それから毎日朝に電話がかかってきました。

1週間を終えた頃。少しずつ慣れ始め
流れもつかみ始めていた時です。
なんだかその日は実習中寒気がしました。
いつも暑すぎると思っていたお風呂のお湯も
冷たく感じる。
暖房が冷房のように感じる。

何かおかしいと思って、熱を測ってみると
なんと39.0度の熱。
実習先の先生に泊まり込みを中止して
一旦帰りなさい。といわれました。
朦朧とした意識の中で荷物をまとめ、
帰ろうと思った時。

どうやって帰ろう。。
ここから家はそこまで近くなく何度か電車を乗り換えなくてはたどり着けません。
正直そこまでの体力はなく、
フラフラとしていたので
帰れる自信がありませんでした。

(タクシー…?そんなお金ないしな)

するとまた父から電話。
メールで母親に熱が出たことを伝えていたので
それを見てかけてきてくれました。

「今どこ?ママと迎えに行く」
「〇〇園ってところ。〇〇駅の近くの。
でも遠くて、きっと迷うよ」

うちの母親は極度の方向音痴と、
遠出をしない性格なので
車を運転して初めての土地に行くなんて
もってのほか。
しかもここは田舎だったので
絶対に来るまでに迷う。

「わかった、今すぐ行くからそこで待ってて」
そういうと電話を切ってしまった父。

それから一時間後。「ついた」と
メールが来ました。施設の前に出てみると
本当に車が止まっていました。

「どうやってきたの?」
「パパの実家がここら辺だったから
地図見て案内してくれたの」という母。

自分の家の最寄り駅でさえ
一人で行くのもやっとだった父が
若い時の記憶を思い出し
しかも地図を見て、案内をしてきた
?!

その時父の回復してきていることを
改めて実感したのと同時に
両親が揃って心配して迎えに来てくれたことに
私は「家族」を感じることが出来ました。



思ったよりも長くなってしまったので
就職から今に至るまで、
ここまでの父の症状の経過まとめは
次回にしたいと思います。

今回も長々と読んでいただき
ありがとうございます。
拙い文章ですが、少しづつ見直し
改善も入れていきたいと思います。

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