境界線

悲しいときに泣いて、楽しい時に笑うということ

私はとても涙もろい。
涙もろいというか、泣き虫というか…
とにかく悲しくても感動してもすぐ泣いてしまう。

反対に、楽しい時はすぐ笑う。ものすごく笑う。

でも、日常生活で「すぐ笑う」という特徴はわりと好意的に受け止められるけれど、「すぐ泣く」はそうじゃない。
すぐ泣く人は、『感情を抑えられない人』みたいな目で見られる。

だから私は、そんな自分が恥ずかしかった。
ずっとコンプレックスだった。

実は、「自分の機嫌を自分で取る方法」と「ご機嫌に過ごせる習慣」について考える。を書いたのは、そんな自分をセーブしたい、と思ったからだ。(「自分の機嫌を取る」ことと「泣かない」ということは全然違うことだけれど、この記事を書いた時の私はこれが解決策みたいに思っていた)

この記事を書いたことにも意味はあった。
『ご機嫌に過ごせる習慣』を考えることで、「実はストレスに感じていた悪習慣」を知ることができたし、不機嫌になりそうになった時の対策は今後の役に立つ。

でも、これは「すぐ泣く自分」への対策にはならない。
不機嫌になること=泣くことでは無いからだ。
私は不機嫌になるから泣くわけじゃない。

だから記事を書いたあとも少しモヤモヤしていた。
そして、いろんなことで・いろんな場所で沢山泣いた。
その度に、「あーまた泣いてしまった」と、なんだか自己嫌悪してのだ。

そんな自分を少し好きになれたのは、友達のある言葉がきっかけだった。

『悲しい時に泣けて楽しい時に笑えるのは、心が豊かなんだよ』

穏やかな口調でそう言った友達は、フォローするような様子もなく、純粋にそう思っている、という風だった。

私はこの言葉がとても嬉しかったし、自分へのプレゼントだと思った。

今まで、「素直なんだね」「心が純粋なんだね」と言ってくれる友達もいたけれど、どこか”大人になりきれない自分”を感じて悲しくなった。(その友達に悪気はないだろうし、とても感謝してる)

『心が豊か』という表現は、とっても素敵だ。

すぐ泣くことをコンプレックスに思い、”対策”しようとしていた自分がバカらしく思えた。
”対策”ってなんだ?対策しなきゃいけないものなの?と…。

このnoteには「なぜコンプレックスに感じるようになったのか」「なぜ受け入れられるようになったのか」をメモとしてまとめておこうと思う。


感情移入しすぎる自分と周りの目

冒頭にも書いたけれど、私はすぐ泣くだけじゃなくすぐ笑う。
笑うことに関しては好意的に受け止められるからあまり気にしたことはないけれど、泣くのは別だ。

子どもならまだしも、いい大人が人目をはばからず泣くというのは、あまり見ない。私だって、そんな人がいたらギョッとする。

でも私はそちら側の人間で…どれぐらいすぐ泣くかというと、

・映画のラストシーンだけで泣く(それまでのエピソードがわからなくても、)
・多分泣くシーンではないところで泣く(個人的に過去の出来事とリンクして)
・友達の辛い話を聞いていて、本人よりも先に泣く
・相手が泣きそうになっているのを見て、先に泣く
・必ずと言っていいほどもらい泣きする
・電車に乗っている時や車の運転をしている時ご飯を食べている時、悲しいことを思い出して泣く
・好きなバンドのライブに行って感動して泣く
・家で聴いていても泣く(作業用BGMとかにはできない)
・感動系の本は途中から号泣しすぎて読み進めるのが困難
・健気に頑張っている人を見て泣く

ちょっと異常に思われるかもしれない…

こんな調子だから、ほぼ毎週、何かで泣いている気がする。
大人がどれくらいの頻度で泣くものかわからないけれど、少なくとも私の周りの大人は私のように頻繁に泣かない。

だから余計、自分のことを”変”だと思うようになった。
大人になりきれない、子どもっぽい自分。そんな自分が恥ずかしい、と。
実際、あまりにすぐ泣くので「なんでそんなにすぐ泣くの?」と言われたこともある…。

よく知った間柄の人ならそれほど気にすることはないけれど(私のそういう部分を知っているので)、初対面の人の前でもそれは変わらないから、たまにびっくりさせてしまうことがある。

センシティブな話をすると決まって泣くので、前より話す相手を選ぶようになった。

でも、私にとって感情を揺さぶるようなものを見た時にそれを抑制することはとても難しい。泣かない人を見ると、「なぜそんなに平然としていられるの?」と不思議になるくらいだ(批判的な意味ではなく)。

私は物事に過剰に感情移入してしまうのだと思う。
見ているもの・聴いているものに夢中になりすぎて、自分と相手との境界線がわからなくなるというか。

ご飯を食べながら映画を見ていると、たまにお箸を持ったまま固まっていて、声をかけられてハッとすることがある。映画に入り込みすぎて、自分の行動を忘れてしまうのだ。


感受性が豊かすぎる人は、『HSP』かもしれない

以前、ツイッターで『HSP』という言葉を知った。
HSPは、日本語で『敏感すぎる人』のことを指す。

友達のフォロワーさんがHSP診断をやっていたので、私もやってみたのだけれど、-52〜140のスコアのうち「100」という結果が出て(2回目は102)、HSP度:【強】と診断された。

こういったネット上の診断は1つの判断基準にしかならないし、ここに書いてあるHSPの説明全てが自分に当てはまる訳じゃない。

ただ、自分が『HSP』の気質が強いということを知り、「すぐ泣いてしまう変な大人」と思わなくてよくなったことで、自分を嫌いになる理由が一つ減った。

私の場合はADHD由来の『感覚過敏』も持っているため、全てHSPのせいではないと思うけれど、当てはまる部分がとても多かった。(これ私のことだ…!という感じ)

↓HSP診断テストのサイトには、おすすめの書籍なども載っているので、私と同じように悩んでいる方はやってみるといいかもしれません。

↓HSPの特徴や対策がまとめられている記事


刺激に敏感だと、日常生活で疲れることが多い

HSPは様々な刺激に敏感だから、日常生活でとても疲れやすいらしい(精神的にも身体的にも)。

だから、なるべく刺激の少ない生活が必要なのだと思う。

私の場合は、

・自分が弱っている時まで人の相談に乗らない(相談されやすいタイプ)
・悲しい気持ちの時に余計悲しくなるような映画を観たり本を読んだりしない(収拾がつかなくなるため)
・気持ちが落ち込んでいるときは刺激のあるものを遠ざける。無理に外出したりもしない

友達が悩んでいれば、相談に乗るのが普通だと思う。でも、感受性が強い私は自分が精神的に参っている時に相手の悩みを受け止められるほどのキャパがない。以前はそれでも話を聞いていたから、相手には前向きな気持ちになってもらえる代わりに、私がそのあとネガティブな気持ちに浸る…みたいなことがよくあった。でも、それももうやめようと思う。

また、一般的に「悲しいことがあったら泣いて忘れよう」と言われる『涙活』(古い?)も私には合わない。
泣いてスッキリ、というより、悲しみに浸って収拾がつかなくなるからだ。そういうときは、しばらくボーッとして、それから心の整理をする。(ノートに書いたり、noteに記事としてまとめたり)


感情表現することは悪いことじゃない。生まれ持った性質かもしれない。

後半はHSPやADHDなど体質的な話に偏ったけれど、Twitterで意外と反応してくださる方が多かったことから、同じ悩みを持っている人も多いんだな…と思い、HSPの可能性について触れてみた。

でも、診断名がつくことは安心すると同時に不安でもある。
「あなたはこういう人間です」と言われたら、「そういうものなんだ」と思ってしまうものだし、過去の私がそうだったからわかる(ADHDにとらわれて、直そう直そうと必死になっていた※ADHDは障害なので、特性を目立たなくする、というニュアンス)。

でも、友達に『心が豊かなんだよ』と肯定してもらえたように、感情表現することは悪いことじゃない。
自分の気持ちに素直でいられることは、”人間らしい”とも言えるんじゃないだろうか。

もちろん、一緒にいる人を困惑させるのは申し訳ないので、”体が反応しているだけで、自分が意外と冷静である”ということを伝えたりはしている。
そして、そういう自分を変な目で見たりせず、受け止めてくれるような相手と付き合って行けたらいいなと思う。

ある人から見てマイナスに見える部分が、別の人から見れば素敵に映ることもある。

自分がコンプレックスと思っている特性が、本当に「直さなければいけないもの」なのかを考えて、そうでなければ環境や付き合う相手を変えるというのも1つの方法なんだと思う。

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