始まりのゴング・濡れたパジャマ

「お父さん、欲しいでしょ…?」
少し震えた猫撫で声で、伺う様に、しかし反論を許さぬ様に、母が尋ねてきた。
その強く媚びたような目に、いつもと様相が違うのを子供ながらに感じ取った私は、思わず目を逸らしたくなった。けれど、何故か今逸らしてはならない気がして、私も懸命に母を見つめ返し、咄嗟に「いらない」と答えた。
ひざまづき、私を下から見上げる母の目が、瞬間赤く揺れる。
私は洗面台の前に置かれた、古いバスチェアの上に立ち、母に両腕を掴まれていた。
顔を洗っていたのだ。
身長の足りない私は、お風呂で使わなくなったバスチェアを台にして、洗面所で顔を洗う。
朝起きたら一番にここにくる、それが私の日課であり、日常だった。
「ねぇ」
少し鼻にかかった甘ったるい声で、優しく、しかし強く、母が私の両腕をもう一度握りしめてきた。子供の細い腕は、大人の掌に収まり切り、私は台の上で身じろぐ事が出来なくなった。
「どうして、欲しいって、言っていたじゃない。」
「いらない。」
懸命に見つめてくる目から逃れられず、互いに一時沈黙した。母の目元がヒクヒクと痙攣していた。

ついに赤い目から、滴がこぼれ落ちる。
頬を伝って流れ落ちながら、道筋をテラテラと濡らしていく様を、私はただぼんやりと見つめながら、母であるはずの目の前の人に、もう一度「いらない」と強く言い募った。
母は、堪えきれなくなったのか、顔をしかめ、完全なる泣き顔になり、私の腰に抱きついてきた。
「お願い…お願い…えみちゃん、お願い」
何をお願いされているのか、どうして母は泣いているのか、全く分からない訳ではない、しかし分かりたくはない私は、呆然と遠くの床を眺めていた。
さっきはそこに、母の顔があり、私の視線を遮っていたのだ。
今は、母の濡れた顔は私の腰に押し付けてあり、私のパジャマを濡らしている。
裸足で乗った台は冷たく、パジャマから出た足首と指先が急速に冷えていくのを感じた。

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