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獄暑の東京から涼感の札幌へ

もう無理だ。2023年の夏、東京に暮らす多くの人がそう思ったに違いない。
2023年を迎えた東京の暑さは例年になく異常だった。地獄にいるような暑さは「酷暑」という表現を超えてもはや「獄暑」といって差し支えない。
環境省が2019年7月に公開した動画「2100年 未来の天気予報」によると、夏季の熱中症などの死者は日本全国で1.5万人を超え、東京の最高気温は夏には43.3℃、真冬の2月でも26℃の夏日になる見通しだという。
要するに、今後気温が上がることはあっても下がる可能性は低いと予測されている。この予測を現実味のあるシナリオと見なすならば、ひとつ疑問が湧く。
このまま東京で生活していていいのか?

我慢の限界
今年もこの季節が来てしまった……。東京で夏の到来を予感させる空気を感じるたびに憂鬱になる。
夏の暑さが本格的に訪れる直前の6月、東京の街は梅雨の季節へと移ろい、大気中の湿度が一気に高まる。
肌に湿気がまとわりつく感覚は不快感を強め、人間関係で悩んでいるわけでも、仕事でストレスを抱えているわけでも、金銭的に困っているわけでもないのに、生活を送る中でふいに苛立ってくる。
そして夏本番。外に一歩出れば、灼熱の太陽から放たれる日光が燦々と降り注ぎ、全身にのしかかってくる。そこに逃げ場はない。
陽が落ちても暑さがとどまることはない。暑さは夜通し続き、冷房設備のない生活が不可能な状況に陥っている。
涼を取ろうと居場所を求めても、それは束の間の安らぎにすぎない。砂漠の中で見つける桃源郷が雲散霧消と化すように、すぐにまた過酷な状況に身を置かざるを得なくなる。
東京で暮らしていると、金銭的に困難な状況に陥っていない限り、大抵の充足を得られる。手を伸ばせばなんでも手が届くような感覚さえある。
東京は、多様な食文化が交錯する美食都市であり、言わずもがな世界経済の中心地の一つであり、文化芸術の資産を多く有する街でもある。
かくいう筆者自身も、富と人とものに溢れかえる東京のエネルギーを享受し、公私ともに充実した日々を送ってきた。
でも、もう我慢の限界。6月から9月まで、一年のうち三分の一も不快な気分のまま生活を送ることに辟易してきた。ならば、東京を離れる選択肢を検討するほかない。
さて、どこへ行こうか?

安住の地はどこか
日本でウイルス感染が拡大し始めてまもない頃、上階に引っ越してきた三井住友信託銀行の社員による騒音が日増しに酷くなったことが原因で、賃貸していた部屋を出た。退去した翌日、東京で緊急事態宣言が発令された。
新しい部屋を見つける間もなく出てしまったため、とりあえず都内の実家に戻った。緊急事態宣言が明けても旅行するような雰囲気ではなく、宿代が格安だったことから都心でホテル暮らしを始めてみた。
そんな生活にも飽き、世情が少し落ち着いた2021年春頃、とりあえず京都へ行ってみた。
ここから旅生活が始まり、緊急事態宣言やまん延防止等重点措置が発令されていない街から街へと移動していくうちに、1年半で47都道府県を巡った。2021年から2022年にかけて費やした資金は軽く数百万円に上る。
各地を旅して特に気に入ったのが札幌、京都、博多だった。食文化が豊かで適度に都会的な機能が備わり、東京に比べて物価や家賃が安い環境はとても魅力的に思えた。
「どこかに移住してみようかな」と考えたこともあったが、前述した東京の美点を愛している筆者は、長旅から帰京してもなお、メトロポリタンライフを送る選択肢をどうしても捨てきれないでいた。
ここで話を戻そう。そう、もう我慢の限界なのだ。毎年4か月間も機嫌を損ねたまま生活を送るのは、真っ平御免という気分が最高潮に達してしまった。
獄暑の東京を出て居場所を求めるなら涼しい場所に行かなければ意味がない。
札幌、京都、博多という選択肢のうち、東京とさほど変わらぬ暑さが続く京都と博多は、有効な逃避先にはなり得ない。残るは札幌しかない。
だが、札幌へ移住するのが本当に正しい選択なのか?

辿り着いた最適解
きちんと数えたことはないが、筆者はおそらく、アナログレコードを千枚以上、書籍を千冊以上も所有している。
音楽鑑賞と読書に情熱を注ぎ、記者や編集者として生計を立ててきた筆者にとって、世界一のレコード市場であり、世界有数の書店数を誇り、かつ情報の集積地である東京は離れがたい。
映画館で年に100本以上を鑑賞し、国内外のミュージシャンのライブを頻繁に見て、少しでも時間があれば美術展へ行き、隙あらば新しいレストランを開拓し、美しい女性とデートを重ね、東京の養分を最大限に吸収している。
つまり、この街が好きで仕方ない。
移住への決断を先送りしていた筆者は、日本一周を終えて東京へ戻った2022年夏、渋谷の名建築「ビラ・モデルナ」に個人事務所を開設した。
そこはそれなりに居心地のいい空間となり、このまま東京に根城を下ろしていくのだろうと思い始めていた。
ところが、事務所を借りて10カ月ほどが経った翌2023年6月頃から、築50年近いビラ・モデルナの一室が老朽化の弊害を見せ始めた。
窓枠が錆びて虫が入り、空調設備が故障し、シンクが詰まって水が出なくなり、雨が降った日には床から水漏れを確認するようになった。ホラーかよ。
つくづく物件の運がないのか、入居して1年で退去費用をもらって事務所を引き払うことになった。
これで筆者はまたも拠点を失った。しかも、獄暑の夏に。
本題に戻ろう。もうとっくに我慢の限界なのだ。この街で夏を過ごすのはやっぱり御免被りたい。
ただ、東京での生活を捨てきれない。にもかかわらず、灼熱の地を離れたい欲求は募るばかり。
相反する願望に自分なりに折り合いをつけて求めた最適解が、東京と札幌の二拠点生活だった。

最大の敵は獄暑だった
2023年9月19日、残暑の東京を離れ、夏が過ぎ去った札幌の地に降り立った。街に吹く涼しい風のおかげで、東京の暑さで荒れた精神がとたんに落ち着き、心がとても穏やかになった自分に気付いた。
獄暑の東京にいるときは、理性が乱れ、感性が萎え、知性が鈍っている感覚を常に抱えていた。あまりの暑さに耐えかねて、ほとんど外出すらしない引きこもり状態に堕す始末だった。それが、札幌に降り立った瞬間から回復し、急に集中力と行動力を取り戻せた。
ここしかない。そう確信した。夏の東京で疲弊するくらいなら、いっそ出てしまえばいい。
降雪で寒い日々が多い反面、梅雨がなく、台風も来ず、地震も少なく、スギ花粉も飛ばず、冬の前触れに現れる雪虫を除けば虫もそんなに出ず、家賃も物価も東京より安く、かといって田舎というわけでもなく、しかもメシはとびきり美味い。夏の涼しさ以外の要素も加味すれば、拠点を設けない理由を探すほうが難しい。
札幌での滞在を終えて電車で新千歳空港に向かう頃にはスマホを開いて物件を探し始め、その1週間後には賃貸マンションへの申し込みを済ませた。
実際に札幌に拠点を構えてみると、東京と比べて劣っている点がいくつか目につくものの、それは許容の範囲に収まっている。
雪道で足元がおぼつかない日々に苦労しつつ、とにかく今は夏が待ち遠しい。

(標題の画像は筆者が制作しています)