見出し画像

さよならウディ・アレン

メトロポリタン歌劇場(MET)の音楽監督だった名指揮者、ジェームズ・レヴァインが2021年3月にこの世を去った。
彼の訃報を受けて、その功績を賞賛する記事が目立った。でも、どこか遠慮がちでバツの悪そうな筆致で書かれている記事ばかりだった。
それも止むを得ないだろう。ジェームズ・レヴァインがMETを去った理由は、性的虐待の認定に伴う解雇だったのだから。
METは2017年12月、「数多くの性的不正行為の疑い」を理由にジェームズ・レヴァインを停職処分とし、2018年3月には正式に解雇した上で、名誉音楽監督のタイトルまで剥奪した。
この容赦のない処分は、性被害を告発する「#MeToo」運動の盛り上がりを受けて長年の疑惑が掘り返されたことがきっかけだった。
ジェームズ・レヴァインのように過去の疑惑を掘り返され、業界を追われた芸術家がもう一人いる。彼と同じくニューヨークで活動してきた映画監督、ウディ・アレンがその人である。

ウディ・アレン追放
映画館に年一度行くか行かないかという程度の一般客には決して馴染みがないだろうが、ウディ・アレンは、映像芸術の分野において世界で最も評価の高い芸術家と認識されている。
これまでに、世界で最も権威ある映画賞「アカデミー賞」に史上最多の24回ノミネートされ、監督賞を1度、脚本賞を3度受賞している。
これだけの影響力を誇る人物が業界から追放されたため、芸術の世界に少なからず衝撃が走っているという。
きっかけは#MeToo運動だった。
ウディ・アレンの性的虐待疑惑は随分前から取り沙汰されてきた。虐待疑惑が発覚した当時こそ騒ぎになったが、騒動が落ち着いて以降はジェームズ・レヴァインに対する疑惑と同様、長年放置されてきた。
ただ、世間は忘れていなかった。いや、正確に言えば、忘れていたけど思い出した。
#MeToo運動が盛んになる中、「そう言えば、ウディ・アレンにも性的虐待疑惑があったよね。あれはどうなの?」というような調子で、SNSを中心にウディ・アレンを批判する声が日増しに強まった。
ウディ・アレンは次第に窮地に立たされていった。監督作の公開は見送られ、新作の撮影も取りやめになった。事実上、映画監督として引導を渡されたと言って差し支えない状況に追い込まれた。
ウディ・アレンの性的虐待疑惑はいまだ論争が絶えず、真実が明らかになっていない。それどころか、そもそも真実を明らかにしようがないのではないか。
猿渡由紀著『ウディ・アレン追放』には、そう思わせるだけの説得力がある。以下、同書を元にしながら、ウディ・アレンの追放劇を見ていこう。

事の顛末
虐待疑惑の発端は1992年まで遡る。当時、ウディ・アレンと恋仲にあった女優ミア・ファローの養女ディランが、幼い頃に養父のウディ・アレンから虐待を受けたと告発した。
ウディ・アレンは疑惑を完全に否定したが、その主張も虚しく警察による捜査が始まった。捜査結果を受けて、裁判で「信憑性のある証拠はない」と判断され、起訴は見送られた。
疑惑が浮上した当時、ウディ・アレンとミア・ファローは12年間の交際を経て、養子のディランとモーゼス、実子のサチェルという3人の子どもを設けていた。親権を巡る裁判ではミア・ファロー側が全面的に勝利している。
前出の3人に加えて、ミア・ファローは元夫の指揮者アンドレ・プレヴィンとの間に韓国出身の養女スンニをもうけていた。
スンニは、あろうことか養母の交際相手と男女の仲になっていた。自分の養女がウディ・アレンとセックスする間柄に発展していた事実を知り、ミア・ファローはショックを受けた。
ディランに対して性的虐待が行われたとされる時期は、ウディ・アレンとスンニが恋愛関係にあることをミア・ファローが知った8カ月後とされている。
ウディ・アレンは当時、スンニとの恋愛関係に怒ったミア・ファローが腹いせで性的虐待疑惑をでっち上げたのだ、と主張している。
35歳も離れている女性と男女の仲になるウディ・アレンに世間は批判的だったが、ミア・ファローにも問題がないわけではなかった。スンニの証言によると、自分を家政婦のようにこき使ったり暴力を振るったりしていたのだという。
ウディ・アレンはその相談に乗っているうちにスンニと恋に落ちたと語っている。
騒動から5年が経った1997年、ウディ・アレンとスンニは結婚した。現在に至るまで結婚は続き、仲睦まじくマンハッタンのアッパー・イースト・サイドに居住している。一方でミア・ファロー側とは疎遠なままだという。
2人の結婚から20年が経った2017年10月以降、ハーヴェイ・ワインスタインによる性暴力の告発が相次いだ。
この調査報道を主導していた一人が、なんとウディ・アレンの実子であるサチェルだった。現在では「ローナン・ファロー」と名乗り、ジャーナリストとして活躍している。
一連の調査報道が加熱すると、「ロマン・ポランスキーやウディ・アレンはどうなった?」というような論調で、過去の疑惑が掘り下げられた。SNSを中心にウディ・アレンへの追及が続いた結果、これまで彼と仕事してきた俳優をはじめとした数々の関係者が「もうウディ・アレンとは仕事しない」などと言い始めた。
ウディ・アレンに4本の映画製作を発注していたアマゾン・スタジオは2018年6月に通告した。「依頼していた4本の契約を破棄する」と。
この瞬間、ウディ・アレンは完全に業界から見放されてしまった。

支持者がいて作品が存在する
ウディ・アレンに限らず、あらゆる業界で過去の行いに対する社会的な制裁が下されている。一連の状況を指して「キャンセルカルチャー」という言葉も生まれた。
日本でも東京五輪の開会式を巡って、ミュージシャンの小山田圭吾やコメディアンの小林賢太郎らが過去の発言を問題視され、職を追われたことは記憶に新しい。
キャンセルカルチャーと芸術はきっと相性が悪いのだろう。
芸術を愛する者は「芸術家は作品で評価されるべき」と主張するだろう。
翻って、あらゆる現象の中に隠れた偏見を探り出す哲学「批判理論」を背景とするキャンセルカルチャーの支持者は、「偏見を持った人物による作品が評価されるべきではない」と主張するだろう。
互いに相容れないまま、両者がわかりあうことはおそらくない。
映画史に燦然と輝く名作の一つに『ベニスに死す』がある。同作を監督したルキノ・ヴィスコンティには後年、少年への性的虐待疑惑が持ち上がった。
作品で評価するならルキノ・ヴィスコンティは名匠に他ならない。しかし、性的虐待に関する実態が明らかになった今、その威光は輝きを保てているか。
作者に問題があれば、作品自体の輝きは失われなくても、その人物に対する敬意は失われるだろう。だからこそ、その人物が創作を続けたとしても、敬意が失われた状況では支持者が現れない。よって、芸術家として存在価値を失い、発表の場も与えられなくなる。ならば、それは仕方ないのではないか。

自分で判断すればいい
「芸術家は作品で評価されるべき」という主張はもっともらしく聞こえるが、作品と作者を完全に分離して捉えるなら、「誰が作っても同じ」と言っているのと一緒だろう。
思考実験してみよう。作者不明で発表された作品の芸術性が高く評価され、名門オークションハウスに出品されたとする。この時点では高い芸術性のみが純粋に評価され、高値が付けられるかもしれない。
でも実は、大量殺人犯が描いた作品だと分かったらどうなるだろうか。価値は見直されるかもしれない。もしくは、作者がAI(人工知能)だと分かったらどうなるだろうか。価値はそんなに上がらないかもしれない。
反対にピカソだと判明したらどうなるだろうか。一気に価値が跳ね上がるかもしれない。もしヒトラーが作者だったらどうだろうか。そもそも出品が取り下げられるかもしれない。
ここまで考えると、作品と作者を峻別するのは無理がある。
作者に対する評価や評判によって作品の価値が左右される可能性がある以上、「芸術家は作品で評価されるべき」というテーゼは単純には機能しない。
正確に言えば、「芸術家は原則として作品で評価されるべきだが、明らかにされた作者の人間性や過去の行いによっては、作品の扱われ方が変わる可能性はある」となる。
では、批判された芸術家の作品はすべて社会から抹殺されるべきなのか。そうではない。猿渡由紀は『ウディ・アレン追放』の冒頭にこう記している。
「真実はおそらく永遠に二人にしかわからないのだろう。それでも、ここでは、これまでにどんな経緯があったのかを、わかっている限り、振り返っていきたい。その上で、読者それぞれが判断していただければと思う」
猿渡由紀が示したこの姿勢はおそらく正しい。
芸術家がスキャンダルにまみれて立場を失った後もその作品を愛するかどうかは、社会が決めることでも、ましてや政治が決めることでもない。作品を見た者が自分で判断すればいい。

さよならウディ・アレン
ウディ・アレンは2020年9月、アマゾン・スタジオとは別の会社と製作した新作『リフキンズ・フェスティバル』の製作発表会見でこう語っている。
「私の映画は、人間と、人間についてだった。そこにユーモアを持ち込もうとしている。私が死ぬ場所は、たぶん映画の撮影現場だろう。本当にそうなるかもと思う」
2017年12月2日、指揮者のジェームズ・レヴァインはMETの舞台に立っていた。観客は彼の登場に歓喜し、劇場は大いに盛り上がった。彼の性的虐待疑惑が世間に広く知られたのはその日の夜だった。
この日、ジェームズ・レヴァインがMETと演奏した曲はヴェルディ「レクイエム」だった。図らずも音楽家としての死にふさわしい選曲となった。ウディ・アレンが最後に撮る作品では、映画監督としての死にふさわしい台詞を聴けるだろうか。
ウディ・アレンの作品は今後も輝きを失わないかもしれないが、人々からの敬意を失った今、芸術家として活躍できる機会も消え失せた。
きっともう、彼の新作は見られない。
さよなら、ウディ・アレン。

(標題画像はアイコンフリー素材サイト「ICOOON MONO」でダウンロードした「メガネのアイコン素材」をもとに筆者が作成)

文中一部敬称略