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映画オッペンハイマーは、最高のエンタメだがコンサバでチキン

奇抜な作風と迫力のある映像に圧倒されて誰もが勘違いしているが、違う題材でもお決まりの方法と展開で映画を撮っているクリストファー・ノーランは、とても保守的でラディカルとは程遠く、いつも同じ芸風で進歩がない。
クリストファー・ノーラン監督の映画は大概、男たちの勝利で終幕を迎える。それは、核兵器開発を主導した物理学者ロバート・オッペンハイマーの半生が描かれた映画『オッペンハイマー』でも繰り返された。
『ダークナイト』シリーズも『インセプション』も『インターステラー』も『TENET』も、主人公の男たちは悲劇を乗り越えて最終的には生き残る。『オッペンハイマー』が史実に基づいた作品とはいえ、戦勝国の英雄となったオッペンハイマーはやはり悲劇を乗り越え、ちゃっかり生きながらえる。
ノーラン監督作の主人公は大抵、強迫観念を抱えた性格の持ち主で、身近な女性をいつも酷い目に遭わせる。そして、もはや引き返せないところまで突き進んで状況を悪化させ、周囲を巻き込んでいく。この流れは『オッペンハイマー』でも同様だった。
ノーランはどの監督作でも、登場人物の感情を表現する際、音楽に依存する傾向にある。事実、『オッペンハイマー』はほとんど音楽が鳴りっぱなしだった。音楽より台詞や物音を観客に聴かせたほうがいいと思われる場面ですら、ルドウィグ・ゴランソンのスコアは鳴り止まない。
このように、ノーラン作品に見られる映像の奇抜さは、似たような展開を覆い隠すトリックと指摘できるだろう。

惨事より情事を優先
一般には、核開発を主導したオッペンハイマーが後悔の念に悩み苦しむ姿が描かれた作品と説明されている。それは本当なのか?
広島・長崎に対する原爆投下で20万人超が虐殺されてから15年経った1960年、オッペンハイマーは日本を訪れている。
このとき、被爆地に行ったかというと、完全スルーだった。この事実は劇中では言及されていない。
訪日しておきながら被曝の実態を自らの目で確認しなかった人物を苦悩していたと解釈できる理由はなんだろうか。
「映画なんだからすべてを描くことは無理なのでは」という見解は有効な気がするものの、オッペンハイマーと不倫相手のラブシーンは被爆地で起きた惨事より重要なのか?
ノーランが惨事を描かずに情事を描く判断を優先した事実を率直に理解するなら、ノーランにとっては惨事より情事のほうが重要だったと推察できる。
ラブシーンを優先したノーランの演出は、歴史の因果を描く選択肢をあえて避け、情に走ってお涙頂戴を狙っただけとも読み取れる。
つまり、大した演出ではなかった。という解釈も成り立つ。
要するに、原爆投下が招いた原因と過程、それに付随する些事を描く一方で、原爆が人類にもたらした結果を説明しない展開は、ストーリーテリングに問題を抱えていると言わざるを得ない。

観客を煙に巻く
ノーランは作品を見た観客を惑わせて驚かせることに快感を覚えている節がある。
批評家のマーク・フィッシャーによると、ノーランは、物語の展開において人を騙すこと、物語の構造を二重にすること、この2つの意味における二枚舌/二重性(デュプリシティ)を得意とし、物語に解けない謎をかけて観客を曖昧さの迷宮に引き込む手腕に長けている。
さらにフィッシャーは、劇中で操縦者の役目を担う人物が操縦される者になり、凝視の対象となって別の物語の登場人物になる場面が多く見られることもノーラン監督作の特徴だ、と指摘している。
フィッシャーが喝破したノーランの政治性は『オッペンハイマー』でも貫かれていた。
大戦後のオッペンハイマーは、戦争を勝利に導いた英雄として讃えられたが、不倫相手の女性が共産主義者であったことなどから、赤狩りの標的となって疑いをかけられる。
すると、核開発の指導者=操縦者から凝視の対象となり、研究者としての物語から、共産主義への傾倒を疑われる人物としての物語へと切り替わる。
この展開はまさに、二枚舌/二重性に該当する。ノーランは、成功者と落伍者の両面を捉えることにより善悪を曖昧にして、核開発の是非という難題に解けない謎をかけ、観客を惑わせている。
結果としてノーランは、観客を巧妙に真実から遠ざけ、映像に目を釘付けにし、作品の評価を高めることに成功を収め、アカデミー作品賞を受賞した。
観客を煙に巻く腕前は実に鮮やかだ。まるで、ノーランが監督・脚本家として生み出した『プレステージ』のアルフレッド・ボーデンや『インセプション』のドミニク・コブのように。

正確に描写された指導者像
オッペンハイマーは死去の2年前になってもなお、広島・長崎への空爆が戦死者を最小化できたと主張し、一面的な見方を捨てられずにいた。彼は1965年にこう語っている。
「日本本土への上陸作戦に至ればアメリカ人と日本人との間で大殺戮が伴うことは、あの時点では正しい見解だったと信じている。その被害と比べれば、原爆は大きな救いだっただろう」
宇宙の複雑性を理解できたオッペンハイマーは、原爆投下という三次元世界の現象に限っては、物事の多面性や相補性を重視せず、還元主義のブラックホールに落ちたままだった。
歴史書を読み解くと、オッペンハイマーは当時、核開発に最後まで積極的だった人物として記録されている。
大戦中、原爆製造プロジェクト「マンハッタン計画」の舞台となったロスアラモス国立研究所では、科学者たちが開発競争にのめり込むあまり、1944年にナチスドイツが原爆を持ちえないのが明らかになっても、計画を停止しようという雰囲気が醸成されなかったという。
このとき、ロスアラモスにいた大勢の科学者のうち研究から手を引いたのは、後に核兵器の廃絶を目指す「パグウォッシュ会議」の指導者となるジョゼフ・ロートブラットだけだった。
一方のオッペンハイマーは、核兵器の製造を目指すロスアラモスの指導者として、研究の必要性がなくなったと思われても手綱を緩めなかった。
こうした大戦中の史実はロートブラットの件を除いて劇中で正確に描写され、実際の人物像も忠実に再現されていた。この点においてはノーランの真摯さを感じた。

反戦・反核映画にあらず
巷の評論家たちは、ノーラン監督作の庇護を目的化しすぎて、作品を正面から批評する精神を失っている。
批評や分析とは、語られている内容と合わせて、語られていない内容に着目してこそ有用になるが、日本の映画評論家や映画ジャーナリストと名乗る連中は描かれている内容にしか言及しない。
その愚行は『オッペンハイマー』の評論でも繰り返されている。おそらく、オッペンハイマーの評伝や原子爆弾の開発史、科学者の論考などを一冊も読んでいないのではないか。
史実に基づく映画作品なら泰斗の歴史家が著した書物を通読すべきだと思うが、ポストモダン主義よろしく「なんとなくノーラン」という姿勢で、なんちゃって評論に終始している。
なんちゃって評論家の中には、被爆の現実が描かれていないからといってノーラン監督作が非難されるのはおかしい、と主張する論者がいる。
例えば『ミッション・インポッシブル』シリーズで主人公のイーサン・ハントが悪党と戦うシーンを描き、その結果を見せないことは可能なのか。
創作に基づく物語では許されないであろう展開が、事実に基づく物語でのみ許容される根拠はなんなのか。
ドキュメンタリーではない作品で史実が描かれてないことに文句をつけるのは筋違いである、という見解には一定の説得力があるものの、重要な史実が描かれていない以上、そこには意図が存在していると見破るべきであろう。
先ほど分析したとおり、二重性の傾向を見せるオッペンハイマーの半生を通して、観客を二枚舌で惑わすことがノーランの目的だったと考えられる。
ノーランはその目的を達成するため、オッペンハイマーと原爆投下の因果関係を説明する直接話法を避け、彼を取り巻く人物や状況との相関関係を説明する間接話法を採用した可能性がある。
ノーランはきっと、オッペンハイマーと原爆投下の因果関係に差して興味はなく、核兵器を製造したオッペンハイマーに対する因果応報に関心があったと考えられる。
ノーランにとって被爆の結果はオッペンハイマーを語るうえで重要ではなく、まして核兵器の恐ろしさを知らしめる意図や意思も劇中で一切見せていない。
なんちゃって評論家たちが一般に解説しているような反戦・反核映画という捉え方は、ただの拡大解釈もしくは思い込みと批判するほかない。

コンサバでチキンだが最高のエンタメ
『オッペンハイマー』は、オッペンハイマーの半生を描く反面、歴史的な人物の評伝という威を借りて真実を覆い隠している。
第二次世界大戦中に率先して核開発を開始に導いたのは、どの国でも科学者であり、政治指導者ではなかった。
ナチスドイツの独裁者アドルフ・ヒトラーに対する恐れを抱き、核兵器製造の実現性を承知していた物理学者たちは、アメリカとイギリスの政府を説得し、1941年、原爆を製造できる工場と研究所を建設させた。
後知恵の恩恵に浴して振り返るならば、ヒトラーは一度として核兵器に本気で興味を抱かなかった。日本の軍指導部も真剣な関心をもっていなかった。
アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領とイギリスのウィンストン・チャーチル首相は、科学担当補佐官に説得され、ようやく核開発に関心をもった。
ソビエト連邦では、科学者で政治家のラヴレンティ・ベリヤが最高指導者ヨシフ・スターリンに対し、原爆より遥かに強力な威力を誇る水素爆弾の開発を進言し、1953年8月12日に水爆実験を成功させた。
このとおり、科学者たちが連合国政府に兵器開発を働きかけなければ核兵器は製造されず、大戦後に核拡散が進むこともなかった可能性がある。
核兵器さえ生まれなければ失われずに済んだ命は数えきれない。
劇中で最大の見せ場と宣伝されている人類最初の核実験「トリニティ実験」によって、実験地の周辺に放射性物質が降り、多数のアメリカ国民が犠牲となった。
加えて、核兵器の登場は東西冷戦の勃発を助長した。冷戦構造下で米露の代理戦争が展開されて多くの市民や軍人が命を落とし、その数は原爆が投下された広島・長崎の死者数を遥かに凌ぐ。
これらの事実にほとんど触れず、核兵器を作り出したオッペンハイマーの半生にのみ焦点を当て続け、原爆投下の結果を正面から描かなかったノーランの脚本に対しては、極めて保守的で弱腰の印象を受ける。
「文化というものは、野蛮さの仮面にすぎないことも多くある」
水俣病を題材に小説『苦海浄土』を残した作家、石牟礼道子の名言を借りるならば、『オッペンハイマー』は、名うての役者たちの演技によって支えられた壮大な映像で、観客を真実から巧妙に遠ざけて惑わす、野蛮さの仮面を被った作品にすぎない。
それでも、映画として面白いことは間違いなく、芸術ではなくエンターテイメントとして最高峰であることは認める。

(標題の画像は「Canva」のテンプレートを利用)

文中一部敬称略

参考文献
藤永茂『ロバート・オッペンハイマー』
カイ・バード、マーティン・J・シャーウィン『オッペンハイマー』
アントニー・ビーヴァー『第二次世界大戦1939-45』
アンドリュー・J・ロッター『原爆の世界史』
フリーマン・ダイソン『核兵器と人間』
フリーマン・ダイソン『叛逆としての科学』
ジョン・L・カスティ『プリンストン高等研究所物語』
マーク・フィッシャー『わが人生の幽霊たち』
BS TBS 報道1930『「オッペンハイマー」から考える AIが核兵器を凌ぐ日』
Netflix『ターニング・ポイント:核兵器と冷戦』
石牟礼道子『食べごしらえおままごと』