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東洋経済オンライン時代の仕事を33本の記事で振り返ってみる

2018年2月、ウェブ上で最も有力なニュースメディア「東洋経済オンライン」の編集部に入った。採用試験を経ることなく、言わばヘッドハンティングで一本釣りされる形で編集部員になった。
在籍した2019年1月までの1年間で制作した記事は127本。編集した記事が125本、執筆した記事が2本。
それぞれに思い出があるが、すべて紹介すると長大になってしまうため、とりわけ記憶に残っている33本に絞って、編集作業の一端を覗かせながら当時を振り返る。

ラディカルな女性たち
編集者として著者を探すとき、際立った活躍を見せる女性に注目する傾向がある。
日本における女性の地位は信じられないほど低い。絶望的に男性社会の日本で、不遇な立場に追いやられがちな環境を変えようと奮闘する女性たちがいる。
取材の現場で彼女たちを見かけると、その姿に見惚れている自分に気づく。
このひとが書いたらどんな文章が出てくるだろうか。その興味からオファーを出す。
『安倍政権の「待機児童政策」は問題だらけだ』をはじめ、定期的に書いてくれた天野妙さん。300万pvを叩き出した『保育園「あえて落ちる」人が続出する本質理由』をはじめ、幼児教育に関する論考を寄せてくれた普光院亜紀さん。『保育園死亡事故を防ぐために親ができること』をはじめ、実際の子育て事情を報告してくれた森田亜矢子さん。『「女性医師」に必要なのは、労働環境の改善だ』をはじめ、医療現場の実情を明快に伝えてくれた小倉加奈子さん。『「日本の常識は海外の非常識」は病院にもある』で、旧態依然としている日本の医療現場をコンサルタントの立場から危機感を持って解説してくれた車藍さん。
このほか、多くのラディカルな女性たちに支えられ、意義のある記事を送り出せた。この時代、言われのない批判を覚悟しないと、意見を述べるのも難しい。そんな中で勇気のいる主張を展開してくれた女性の執筆陣には感謝しかない。

偏見、差別、暴力に向き合う
世界でも日本でも、偏見や差別、暴力はそこかしこに存在している。
ニュース編集者として仕事している以上、社会に影響を与え、議論を喚起し、変革を促すきっかけを作りたいと常に考えている。誰かの思考を変えたり、固定観念を揺るがしたり、先入観を改めさせたりできれば、と思って日々仕事に打ち込んだ。
すべての記事で実現できたわけではないけれど、当時の社会に何らかの議論を喚起できたと自負できる記事が以下の5本。
『強制不妊手術の問題が今なぜ注目されるのか』を執筆してくれた柘植あづみさんは、生命倫理の研究における泰斗として知られている。
当初、医療倫理の連載を始めようと考え、東京大学の会田薫子特任教授へ会いに行った。結局、その後タイミングが合わなくて会田先生との仕事は実現できなかったけど、柘植先生と出会うきっかけを与えてもらった。
会田先生が「拓殖先生が何か書いたらおもしろいかもしれない」と助言してくれたのが、拓殖先生を知る契機になった。会田先生との打ち合わせを終えた足で国立国会図書館へ行って、拓殖先生の論文や著作を一通り読んだ。
ちょうどその頃、毎日新聞の報道をきっかけとして、優生保護法による強制不妊手術の問題がクローズアップされていた。拓殖先生にメールで執筆を打診したところ、当初は多忙を理由に断られた。
それでも諦められなくて、しつこく思われない程度に交渉を進めたところ、とりあえず話だけでも聞きましょう、ということになってランチをご一緒することになった。
白金でフレンチを食べながら2時間ほど議論を交わし、そのあと明治学院大学のキャンパスまで一緒に散歩している途中、「頑張って書いてみます」と笑みを浮かべて快諾してくれた。美しいキャンパスを背にしながら、「書いたら連絡しますね」と言ってくれた拓殖先生の姿が忘れられない。
強制不妊手術の裁判が盛り上がりを見せた頃、拓殖先生から原稿が送られてきた。素晴らしい内容に感動し、何度も読み返した。
編集作業を進めている最中、ニュースが飛び込んできた。旧優生保護法の救済法が成立し、強制不妊手術の被害者に一時金が支払われることになったという。
拓殖先生に電話し続け、つながったのは22時30分頃。遅い時間に申し訳ないと思いつつ、どうしても翌日に原稿を配信したい旨を伝えると、編集内容をその場で確認してくれ、配信の許可をもらった。
翌日配信すると、大きな反響があった。あのときの手応えは今でもよく覚えている。
『「心は女性」の学生を女子大が受け入れる意味』を執筆してくれた髙橋裕子さんは、拓殖先生の推薦だった。
お茶の水女子大学は2018年、戸籍上は男性でも性別を女性と認識しているトランスジェンダーの学生を2020年度から受け入れると発表した。この発表に対する大手マスコミの報道は本当に酷く、同じジャーナリストとして怒りを感じていた。自分で何とか形にしようと決意した。
自分の人脈で著者探しを行うには限界があったため、拓殖先生に相談したところ、髙橋裕子・津田塾大学塾長が適任だと教えてもらった。まったく面識がなかったが、津田塾大学の広報に交渉し、自分が勉強した内容と問題意識をこれでもかというほど伝えると、髙橋先生が執筆を快諾してくれた。
かなり無理を言って3日で書いてもらい、国会図書館でコピーを取った髙橋先生の論文や、教育現場における性の多様性をめぐる資料を読み込み、1日で編集してすぐに配信した。この記事も反響があり、当時の議論を喚起できたと自負している。
後日、大学の広報から髙橋先生が学会で講演すると聞き、週末、学会の会場となったお茶の水女子大学へ足を運んだ。講演後、瀟洒なスーツをまとい、怜悧な表情をたたえる髙橋先生と話した。
髙橋先生は「こんなに短期間で論考をまとめたのは初めてです」と笑いながら話し、「大変だったけど、書けてよかったです」と言ってくれた。講演中、凛とした存在感を放っていた姿は今も脳裏に焼き付いている。
髙橋先生が講演した学会で舌鋒鋭く質問するひとがいた。講演終了後に声をかけると、日本におけるトランスジェンダー研究の界隈で名が知られていた三橋順子さんだった。
あまりに話がおもしろかったから「何か書いてみませんか?」と打診してみると、「んー、髙橋先生がいい記事を書いたし、わたしが書けることなんてあるかな」と話した。諦められなくて、「三橋さんの実体験や記憶を手繰り寄せて書いてみてはどうでしょうか」と提案すると、「ちょっと考えてみます」と言われ、名刺を受け取った。
後日メールでのやりとりを経て、執筆を快諾してもらった。送られてきた原稿は、予想通りとてもウィットとユーモアに富んでいて、頼んでよかったと思った。この記事もトランスジェンダーをめぐる議論に貢献できたと考えている。
毎年ノーベル賞発表の時期を迎えると、日本人に受賞者が出ることを期待する報道が目立つ。功績の内容を大して理解していなそうな安直な記事を送り出す大手マスコミに辟易していたから、日本の報道ではさほど取り上げられない平和賞で何か記事を企画しようとあらかじめ考えていた。
コンゴで性暴力の被害に苦しむ人々の治療に当たってきたデニ・ムクウェゲ医師に対し、ノーベル平和賞が授与されることが決まったというニュースが入ってきた。
ムクウェゲ医師のことはドキュメンタリーを見て何年も前から知っていたから、ぜひ取り上げたいと思って調べていると、ムクウェゲ医師と親交のある関係者が会見を開くという。早速会見に申し込み、取材することにした。
この会見の場に登場した米川正子さん、華井和代さんと会見終了後に少し議論を交わし、このタイミングで論考を残してほしいと説得した。ムクウェゲ医師に関して日本で最も詳しい2人だったから、当然のごとく多くのオファーが届いているようだった。
口説き落とすには、こちらがにわかではないことをアピールするしかないと考え、付け焼き刃で編集しようとしているわけではないとプレゼンした。もちろん、米川先生と華井先生が書いた論文や関連資料には事前にすべて目を通していた。
このアピールが効いたのか、2人ともメールで快諾の返事を送ってくれた。それぞれ別の視点からコンゴの性暴力問題の解説記事を書いてもらい、この手の硬派な記事としてはたくさんの読者を獲得できた。少なくとも、このタイミングでムクウェゲ医師とコンゴの性暴力問題を詳細に論じた記事は、このほかにひとつもなかった。
ページビュー至上主義が一般化するメディア市場において、人気を集めにくい記事の企画は通りにくい。というか、ほぼ通らないのが現状だろう。そんな中で、東洋経済オンライン編集部は自分に大きな裁量を与えてくれ、この記事の企画も後押ししてくれた。懐が深く器の大きい編集部の存在があってこそ実現できた記事だった。

芸術と社会のつながり
日本でよく聞かれる修辞のひとつに、「文化や芸術に政治を持ち込むな」という決まり文句がある。この考えには反対だけど、一方で、文化や芸術の世界にいる連中が政治や社会と距離を置きたがっている様を日常的によく見かける。
世間の皆様はそんな態度に気づいていて、だからこそ「文化や芸術に政治を持ち込むな」というフレーズが力を持ってしまっているのではないか。
政治や社会に積極的に関わるなんて馬鹿馬鹿しい。そんな風潮が日本の文化・芸術界隈にいる連中の間には漂っている。何なら、文化や芸術のほうが政治や社会より崇高で価値のあるものだとすら考えている輩もいる。政治や社会が安定していないと、そもそも生き残れないにもかかわらず。
ウイルスの感染拡大で生活に困ったり、芸術作品を行政機関によって排除されたりしたときだけ、基本的な人権の尊重や表現の自由を訴えたところで、都合のいい連中だと思われるだけだろう。
そんなことにも頭が回らないのだから、社会で力を持つはずがない。
なぜ文化や芸術が必要なのか。高尚な議論は哲学者に任せておくとして、個人的な考えを述べると、文化や芸術がなければ動物と一緒であり、アリストテレスいわく「社会的な動物」たる人間でいられないから、ひとには文化や芸術が必要なのだと思っている。
別に難しい話を披露したいわけではない。極々簡単なことを言いたいだけ。
社会人であれば、仕事に忙殺されて自分の時間を持てない日々を誰しも一度は経験していると思われる。その様子を思い返せばわかりやすい。
狩りに出て獲物を仕留めて住処に帰ってくる動物たちと、毎日同じ時間に同じ場所で同じ仕事に打ち込んでただ家に戻るだけの社会人たち。その生態は驚くほど似ている。
つまり、文化や芸術という創造的な営みに触れていない人間は、動物と変わらないといえる。
立命館大学の百木漠によると、哲学者ハンナ・アーレントは、近代社会において労働が最も重要な営みとなり、人々が「労働する動物」となった際に全体主義が登場してくると分析したという。言い換えれば、労働を最も重要な営みとする社会は全体主義に陥りやすい。サービス残業やブラック労働が横行し、社会に閉塞感が充満する日本はまさにその典型。
報道機関で長く働いてきて、ずっと抱いている不満がある。美意識の高い人間が驚くほど少ない。だから当然のごとく、文化や芸術に関して詳しい人間も少ない。となれば、報道機関からセンスのいい情報が発信される可能性も低くなる。日本の報道機関には圧倒的に美意識が不足していて、それが取材や編集にも暗い影を落としていると考えている。
前置きが長くなってしまった。以上の理由から、少しでも文化や芸術と社会とのつながりをテーマとして掲げ、ニュースメディアからセンスある情報を発信しようと心がけた。
編集部に在籍していた当時、メインで担当していたジャンルは、医学、教育、経済だった。ゆえに、それほど多くの本数を送り出せたわけではないものの、芸術と社会との関わりに焦点を当てた記事として、以下の5本には特に自信を持っている。

編集者の役得
メディアで働いていると、通常であれば入れない場所に行けたり、滅多に会えないひとに会えたりする役得がある。自分が最も得していると思える瞬間は、著者との打ち合わせ。特に見識の高い学者や専門家との議論は、知的刺激を受け、脳内が活性化される。
『「作文下手な日本人」が生まれる歴史的な必然』をはじめ、定期的に書いてくれた上智大学の奈須正裕教授とはじめて出会ったのは、教育新聞の記者として取材に訪れた東京・茗荷谷で開かれた教員向け講習会だった。
本来は教員たちに話を聞くのが仕事だったが、奈須先生の話があまりにおもしろくて、教員たちに一通り話を聞いたら奈須先生のもとへとかけて行って話しかけた。
その後、東洋経済オンラインで仕事するようになり、ぜひ奈須先生に何か書いてもらいたいと考えた。大学のホームページでメールアドレスを調べ、連絡をとったところ、「まずは話を聞きます」とのことで、四ツ谷にある上智大学のキャンパスへと向かった。
奈須先生の研究室があるフロアの会議室で話し始め、2時間ほど議論を交わした。「教育が社会に与える影響」をテーマに不定期で書いてくれることになった。
奈須先生とは毎回、2時間ほど雑談に近い議論を交わし、その中で話題に上ったおもしろい話を軸に原稿を起こしてもらった。たとえば、『「作文下手な日本人」が生まれる歴史的な必然』を執筆してもらう前のやりとりはこんな感じ。
奈須先生「いやー、久しぶり。最近調子どう?」
自分「論理的に筋がまったく通っていない原稿が送られてきて、ちょっと困ってるんです」
奈須先生「あー、その問題ね。それも実は日本の国語教育が原因なんだよ」
自分「どういうことですか?」
奈須先生「それはね・・・」
ここから議論が始まり、その場で私のためだけに奈須先生がたっぷり2時間近く講義してくれた。その話を原稿に起こしてもらった結果、同記事として結実した。
『「知識偏重」「暗記」教育に対する大いなる誤解』を含め2本執筆してくれた慶應義塾大学の今井むつみ教授と出会うきっかけは、奈須先生のときと同じく、教育新聞の記者として取材に出向いた講演会だった。
とてもウィットとユーモアに富んだ知的な語り口に感銘を受け、取材した翌日に国会図書館へ行き、今井先生の論文や著書に目を通した。ぜひ書いて欲しいと考えて、取材時にもらった名刺に載っていたメールアドレスに依頼を送った。
今井先生が教壇に立つ慶應義塾大学環境情報学部は、神奈川・藤沢の湘南藤沢キャンパスにあった。小田急線で新宿から湘南台まで50分、そこからバスで揺られること20分、バスを降りてから研究室までさらに徒歩20分……。
ようやっと着いて研究室の扉をノックした。部屋の中から「はいはいー」という声が聞こえ、今井先生が扉を開けながら「ようこそ、わざわざこんな遠くまで」と言って出迎えてくれた。
研究室にはたくさんの本が並び、所狭しと資料が積み重ねられていた。来客用と思われるテーブルの上も資料が山積していた。その間を縫った場所に緑茶と和菓子を置いてくれた。
このときは90分ほど議論を交わし、ネットで何でも検索できるようになった反面、記憶や暗記が軽んじられるようになったと感じるとのことだった。では、その路線で論考をまとめてみましょう、とのことで送られてきたのが同記事だった。
東洋経済オンライン編集部に入った当初は、その前から仕事を請け負っていた教育新聞での取材も続けていた。その端境でアルマーニ制服問題が取り沙汰された。
東京都中央区立泰明小学校が高級ブランドのアルマーニによる制服を導入することが判明し、世間を騒がせた。当初は特に関心を払っていなかったが、大手メディアにおける議論がおかしい方向に行き始め、自分で調べてみることにした。
調べてみると、大手メディアの報道がいかにミスリードだったことか。自分で取材して『泰明小「アルマーニ」は本当に"高すぎる"のか』と題する記事を配信した。その道程で協力してくれたのが、お茶の水女子大学で服飾文化を研究する難波知子准教授だった。
取材を始めたタイミングが他のメディアより後発だったから、挽回するには学校に信用してもらう必要があると考えた。ただ、いくら東洋経済とはいえ、学校から見れば「大手マスコミ」の一翼と捉えられてもおかしくない。
そうならないためにはどうすればいいか。
一考した結果、信用ある人物と一緒に話を聞けば協力してくれるかもしれない、という仮説にたどり着いた。そこで、学校制服に関する資料を国会図書館で洗いざらい調べると、難波先生の名前が浮上してきた。図書館でMacBook Proを開き、難波先生にメールしてみた。
いくら制服文化に関心のある研究者とはいえ、さすがに泰明小の話題には関心を持たないかな……と思っていたが、ひとまず研究室で話を伺います、という返信をもらえた。すぐにアポをとって、茗荷谷にあるキャンパスへと向かった。
研究室には制服に関する資料が山のようにあった。それらを手に取りながら制服のあれこれを教えてくれ、こちらが熱心にメモを取っていると、「研究テーマになるかもしれないので、お付き合いしますよ」と言ってくれた。その成果は『学校制服文化の継承と展開―2018年「アルマーニ」制服から考える制服と標準服の関係』(現代風俗学研究18号)として結実している。
朝日新聞出版の医療健康編集部に在籍していた当時、何度か取材させてもらい、いつか執筆に協力してほしいと思っていたのが、ペインクリニックの名医である北原雅樹医師。このひとの考えや知識を世に広めれば社会に貢献できると考え、東洋経済オンラインでの執筆を依頼した。
はじめて出会った当時は東京慈恵会医科大学附属病院にいて、執筆を依頼した頃には横浜市立大学附属市民総合医療センターへ移籍していた。長年の友人からオファーを受けて転職したという。
横浜市営地下鉄の阪東橋駅で下車して、小雨を傘で受け止めながら病院にたどり着いた。診療室の前で北原先生を待っていると、中から「大丈夫ですよ、必ず治りますからね」と患者を勇気付ける北原先生の姿が目に入った。
どうやらその患者は他の病院で治療を受けてたらい回しにされ、評判を聞きつけて北原先生のもとを訪れたようだった。「ありがとうございます」と涙目で話す患者に対し、「一緒に頑張りましょう」と声をかける北原先生の姿は今でも目に焼き付いている。
北原先生とおよそ1年ぶりに再会して、互いの近況を報告し合いながらいろいろ話した。そしてはじめて送り出した記事が『アルコールは百薬の長どころか「万病の元」だ』だった。200万pvを記録し、北原先生も喜んでいた。その後も定期的に書いてくれ、その都度、目から鱗の話をたくさん聞かせてくれ、原稿に起こしてくれた。
朝日新聞出版時代に一緒に仕事した医学ジャーナリスト、山口茜さん。医学の話が好きでたまらない様子で、英語で書かれた医学論文を読んで得た知識をベースに、打ち合わせのたびにいろいろ教えてくれた。何本も寄稿してもらったなかで唯一取材をご一緒したのが『注意!認知症の兆候は3つの違和感に表れる』だった。
アルツハイマー病治療の世界的権威であるデール・ブレデセン医師を取材する前、取材の論点整理を兼ねてブレックファーストミーティングを行おうということになった。ブレデセン医師が泊まっていた東京・汐留の高級ホテル「コンラッド東京」で朝7時過ぎからフレンチレストラン「コラージュ」でブッフェ形式のモーニングを楽しんだ。
この日の天気は快晴。高さ7メートルある窓ガラスから望む景色は青色に染まり、雲が緩やかに浮かんでいた。つい食い意地が張ってここぞとばかりに高級料理を堪能する自分に対し、山口さんは終始上品な食べっぷりで大人の余裕を漂わせていた。山口さんとは医学のことを話してばかりで、山口さん自身のことをほとんど聞いていなかったから、取材前の論点整理を早々に済ませ、この機会に互いのことを話し合った。
いざブレデセン医師の取材が始まると、山口さんが英語で矢継ぎ早に質問し、ブレデセン医師がエスタッシュブリメントらしい発音の格調高い英語で素早く回答してくれた。当初の30分だった取材時間を大幅に上回っても熱心に語り続け、結局1時間近く取材に応じてくれた。世界的な権威が相手の取材でも動じずに英語を話せる山口さんの姿はとてもクールだった。

経済学者たちとの日々
真夏の昼間、編集部で作業していると、慶応義塾大学の中室牧子准教授(現在は教授)の持ち込みによる企画で連載の編集を担当してほしいと編集長から言われた。
日差しがまだ弱い早朝の東京・水天宮前。カフェで中室先生を交えて打ち合わせが開かれ、どんな経済学者に依頼するのが適当か話し合い、その後メールで中室先生とのやり取りが始まった。
個人的に経済学の本をたくさん読んでいて、そのことを編集長に話したかどうかは覚えていないけど、経済学者の方々に依頼メールを送って企画を考える日々は、勉強になるとともに知的刺激になり、とても充実していた。
中室先生から推薦リストが送られてきて、気付けば50人以上の経済学者にオファーを出していた。日本だけでなく、アメリカやメキシコ、ヨーロッパにいる経済学者に連絡を取り、メールで議論しながらテーマを設定し、原稿が届くのを待った。
当然、連載の1本目は中室先生の記事。正直に告白すると、かなりガッツリ編集段階で手を入れさせてもらった。無論、中室先生の原稿はとてもよかった。連載の1本目だっただけに、エッジの立つ論調で展開させて、格調高い雰囲気に仕上げたかったという狙いがあり、編集させてもらった。
かなり手を入れた編集原稿だったから「怒られるかな……」と思いながらメールで送ると、「素晴らしい!!!ぜひこれで配信してください!!」という返答が来た。
胸を撫で下ろして配信の設定を終えたところでメールを確認すると、オファーを出していた経済学者たちから続々と返信が来ていて、どの構成案もおもしろかった。
その後編集部を去ることになったため、自分が編集した記事は8本だけ。連載の立ち上げがうまくいったようで、週刊東洋経済の本誌に連載が移動して続行となった。一応、一定の結果を残せたようで安心した。
編集を手掛けた8本の中で最もよく覚えている記事は、九州大学の馬奈木俊介主幹教授が書いてくれた『ノーベル経済学賞が警告する「経済成長の影」』。
以前から、ノーベル経済学賞に関してメディアから質のいい記事が発信されていないと考えていたため、自分が経済学の分野で編集担当になった以上、必ず形にしようと心に決めていた。
10月18日の深夜、ノーベル経済学賞が発表された。受賞者はエール大学のウィリアム・ノードハウス教授とニューヨーク大学のポール・ローマー教授。この2人の研究分野に関して、日本でもトップクラスの見識を有するのが、まさに馬奈木先生だった。
自宅でニュースをチェックしていたら、東洋経済のメールアカウントに馬奈木先生からメッセージが届いた。東洋経済ではこれに関して何か記事にしますか?という内容だったため、ぜひ馬奈木先生に書いてほしいと伝えた。すると、頑張って書いてみます、という返事が来た。このやり取りが行われたのが深夜3時〜4時頃だったと記憶している。
そこから7〜8時間経った昼頃、なんともう馬奈木先生から原稿が届いた。急いで原稿を確認し、エビデンス部分を特に注意を払って読んで編集し、同時に校閲にも出した。そして、夕方には配信した。ノーベル経済学賞の受賞者発表から24時間以内という電光石火の配信だった。
Googleでニュース検索すると、ノーベル経済学賞に関してこのタイミングで詳細に解説した記事は、馬奈木先生の記事しかなった。少なくともウェブ上では日本経済新聞を含め全メディアを追い抜き、最も速く的確に質の高い記事を送り出せた。
ノーベル経済学賞をめぐる報道において、受賞者の発表直後に一流の経済学者と深夜に編集テーマを考えて、それまでの自分のスキルを発揮して迅速に記事を作って結果を出せたことは、今でも自信につながっている。

ネトウヨ批判
安倍晋三政権は2020年の夏に突如終わりを迎えた。安倍政権は今後、政治学者や歴史学者による検証を受けることになる。
他方、安倍晋三本人の右翼的な傾向は歴史的な検証を待つまでもなく首相在職時から注視すべきだと考えていた。
断っておけば、個人的な思想傾向は中道に属するだろう。いわゆる左翼には共感しないし、かといって日本会議や桜井誠を支持する立場も取らない。新自由主義やグローバル経済には賛同しないが、共産主義で国家を運営すればいいとも考えていない。
たとえば、妊婦が病院をたらい回しにされない社会になればいいと思っているし、教育の格差がなくなればいいと思っている。でも、税金が高すぎると思っているし、高齢者ばかりが恩恵を受けていると感じている。日米安保は破棄できればいいかもしれないけど、自主独立できるだけの胆力がないなら遵守するしかないと思っている。中国との外交は重要だが、あまりに擦り寄るのはおかしいと思っているし、反韓という風潮にはまったく付いていけないけど、今の韓国政府と仲良くするのが得策とも思えない。憲法9条は守ったほうがいいと思うけど、今のまま国防を疎かにしていいとも思えない。
こんな自分は左右のどちらにも分類できない。それでも、ネトウヨの台頭には懸念を抱かざるを得なかった。だから、論理的に批判する必要があると考えた。
記事を書いてくれた前川喜平さんとは、東洋経済オンライン編集部に移籍してから知り合った。教育に関する記事をいくつか書いてもらった中で、この3本は特に政治的な色を帯びた内容になった。
打ち合わせは、中目黒にある前川さんの事務所で行った。毎回2時間ほど議論を交わし、何を書くのか一緒に考えさせてもらった。教育の中に愛国的な内容が盛り込まれようとしている懸念を焦点に書いてほしい、と依頼すると「それならいくらでも書ける」と頼もしい返答があった。
それから1か月半くらい経った頃、ものすごい長文の原稿が送られてきた。しかも内容が多岐にわたっていて、自分が知らないこともたくさんあった。勉強が必要だと思って、日々本や資料を読んだ。
ネトウヨに論理的な瑕疵や出典の誤りを指摘されてしまえば、途端に記事の説得力がなくなってしまう。そう考えて、決してミスを出さず完璧な状態で配信するため、2週間かけて慎重に編集した。
結果として3本に分割して配信し、その後ネトウヨの掲示板で取り上げられ続けた。言われのない批判はたくさんあったものの、誤りを指摘するコメントはついに見られなかった。
「愛国思想の擁護者は暴力を好む」
オスカー・ワイルドの名言を胸に刻んで編集に挑んだ甲斐があったと思えた瞬間だった。

データジャーナリズム
日本ではなかなか根付かないデータビジュアライズ。特にジャーナリズムの世界では日本は相当遅れていると言わざるを得ない。
東洋経済オンライン編集部の荻原和樹さんは、報道分野のデータビジュアルを手掛ける数少ないクリエイターであり、同僚でもあった。
医療ジャーナリストの梶葉子さんに執筆してもらった原稿を彼の元に持っていき、データをビジュアライズ化してくれないか、と相談したところ二つ返事で受けてくれ、数日後にはもう完成していた。出来栄えは完璧。デザインがクールで見やすくて使い勝手もいい。
荻原さんはその後もビジュアライズを手掛け続け、ウイルスの感染状況を可視化したデータビジュアルでグッドデザイン賞を受賞した。彼とはこの1本しか一緒にできなかったけど、今でもこの記事は編集部時代に手掛けた仕事の中でもお気に入りのひとつ。

ヤフトピでバズる
手掛けるテーマが地味でマニアックなものが多いせいか、Yahoo! トピックスに取り上げられる機会はまったくなかった。他の編集部員が編集する記事はよく取り上げられていただけに、なんだか申し訳ない気持ちだった。
編集部に在籍している間、1本くらいはヤフトピでバズらせてやろうと思ったのがこの記事。
教育新聞で取材している頃、藤井聡太棋士の担当教員だった大羽徹さんのことを知った。彼の知られざる一面を知っている学校の先生。もうこれだけで話を聞きたくなった。
オファーを出した当初は断られた。「教育者として藤井棋士の成長ぶりを語ってくれればいいです。ウケ狙いのエピソードなどは求めていません」などと1か月ほど断続的にメールで交渉して、最終的に快諾してもらった。
原稿を推敲して校閲に出した直後、藤井棋士が新人王戦優勝最年少記録を31年ぶりに塗り替える歴史的快挙を果たした。このタイミングを見計っていたため、大羽先生に電話をかけて状況を説明し、最終的な原稿チェックをお願いした。
記事を配信すると、すぐにヤフトピで取り上げられ、たくさんコメントがついた。その後、テレビ局から記事を使いたい旨の連絡が来るなど、大きな反響があった。
手掛けた記事でヤフトピに取り上げられたのはこれだけだった。本来なら何本も出すべきだったけど、やはりこういう記事でないと難しいのか……と思い、自分にとってはこれ1本が限界だった。

俊英との邂逅
かつての日本には、知識人といわれるひとがたくさんいた。ところが今はどうだろうか。知識人といわれるほど知性と徳が高くて、目ぼしい人物がいるだろうか。それほど思いつかないが、中野剛志さんは間違いなく今の日本を代表する知性のひとりだろう。
中野先生の著書『富国と強兵 地政経済学序説』を読んで、その知的な語り口と内容にとても刺激を受けた。中野先生の本を読むと、頭がクリアになるから好きで読んでいる。
中野先生は論壇に現れた頃からすでにスターだった。本が出るたびに読み、同書が出るまでの間もすべての著作を読んでいた。それほど熱心な読者だった。
ノーベル経済学賞が発表された際、たしか中野先生も本でポール・ローマーに言及していたな……と思い、書籍の担当編集者に相談して中野先生につなげてもらった。
直には会えなかったけど、メールでテーマを相談して原稿を依頼した。送られてきた原稿は寸分の狂いもなく完成されていて完璧だった。さすがの出来栄えにしばし感動していて、かかってきた電話を取り忘れた。

一生の思い出
1980年代に登場したファミコンの名ソフト「燃えろ!!プロ野球」において、最強のチートキャラだったのが巨人のウォーレン・クロマティ。クロマティは黄金期の巨人軍で4番バッターであり、子どもだった自分にとってまさにヒーローだった。同じく巨人に同時期に在籍していた投手の桑田真澄も人気だった。
クロマティと桑田真澄。この2人が草野球チームの監督として対決するという。なぜか東洋経済オンラインに取材オファーがあり、スポーツ担当の編集者に誘われてついていくことになり、ライターを含め3人で現場へ向かった。
子どもだった自分にとってヒーローだった2人が目の前にいることに興奮して、もう取材なんてどうでもよかった。とはいえ、ちゃんとカメラを構えて試合風景を押さえて、広報に頼んでクロマティに例のバッティングポーズを取ってもらった。
東洋経済ではいろんな経験を積ませてもらったけど、この取材が一番楽しくて思い出深い。きっと一生忘れない。

スクープ
待機児童がいまだになくならない日本。
スウェーデンやデンマークでは収入の半分を税金で持っていかれるが、医療も教育もタダ。日本は収入の3〜4割を税金や保険で持っていかれても、医療も教育も金がかかる。明らかに政府が無能を晒している。
待機児童をなくすには保育園を公立で作ればいいと思うのだが、なぜか企業主導の保育園設立が推奨されてしまっている。その結果、良からぬ保育園が跋扈し、今でも多くの問題が全国各地で起きている。
この報道は、大川えみるさんの情報提供をきっかけとして始まった。自分の情報網を駆使して調べているうちに、とんでもないカラクリがあることがわかり、助成金詐欺の実態をあばいた。その後、国会でも取り上げられ、特捜部や県警合同捜査本部などが動き、何人もの逮捕者が出ている。
この取材を進めているときは編集に時間を割けず、編集者として忸怩たる思いだったものの、結果として社会問題を告発できた。取材に専念できる環境を整えてくれた編集長や編集部に感謝している。

得がたい1年間
スクープ記事を出した数週間後、1年間の契約を満了したうえで編集部を去ることにした。辞める理由はなかったし、編集者として成長するには続けるべきだったと後悔したこともあった。実際、社交辞令を抜きにして東洋経済はとてもいい会社で、自分のような編集者を受け入れるほど器も大きかった。
東洋経済を去ってしまったけど、その後、別の場所でいろんなひとたちに出会えて、おもしろい仕事に巡り合えた。その縁もまた、代えがたい出会いと経験に満ちている。
たった1年間。それでも、東洋経済オンラインで仕事できた日々は、これからもずっと糧となって自分の中に残り続けるだろう。

(標題画像は東洋経済オンラインのロゴ。元身内だからネット上から勝手に拝借させてもらったけど、問題あれば誰か連絡ください)

文中敬称略