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僕に1+1はもったいない【小説】

原作・山城航
著・ナカタニエイト

「1+1」に答えなどない。
あの日、そう答えていれば、何かが変わっていたのだろうか。
否、そんなことはないだろう。ばかげた妄想の類だ。まだそんなことを思っていたのかと自分を戒め、筆を置く。
答えをくれた息子は、「なんちゃら戦隊うんちゃらカイザー」の人形の背を掴み、自由に空を泳がせている。「ブーン」と口に出しながら病室の中を駆け回るが、個室なので大目に見ていただきたい。
それにしても、人間が空を飛ぶ時の擬音として「ブーン」が正しいのだろうかなどと疑問が生じる。いや、そもそも人間は空を飛びはしないなと思うと、頬が緩む。
彼がベッドの近くに来たので、そのまん丸でボールのような頭をワシワシと撫でた。
「きたな、ワルモノ。モンダイだ!」
子供というものの脈絡はよくわからない。私のベッドまで「来た」のは、「なんちゃらカイザー」の方なのだが。
「モンダイ! 1+1は?」
そう来たか。息子の答えは、きっと何よりも自由なのだろう。
あの日の私も息子ほど自由であれば、もっと早くに答えに辿り着いていたのかもしれない。

「1+1は?」
「2」
俺が答えたこの瞬間が、父の最期となった。中学三年の秋のことだった。
「十時二一分……ご臨終です」
母も妹も泣いていた。妹は父の体に覆い被さるようにして、すがるように泣いていた。
ハンカチで両目を抑える母は、「声すら出せなかった主人の声を最後に聞けて良かったです」と医者に話していた。
俺はといえば、涙が出ることはなかった。
父が横たわっていた。白い布を顔に伏せられ、白いベッドの上に寝かされていた。
もし俺が「2」以外の回答をしていたならば、父は死ぬことがなかったのではないか。父は、もっと話を続けることができたのではないか。
目の前で眠る父の顔を、もう思い出すことができない。白い布をかけたのっぺらぼうに置き換わってしまった。
父の渾身の問いが小さな滲みとなり、心の奥底を染めていく。

父の死後、母は喪主として馬車馬の如く働いていた。俺も長男として働くことは働いた、と思う。身体だけは忙しなく動きつつ、頭は霞がかったようにぼんやりとしていた。
「兄貴、骨を拾うんだってよ」
ボサッとするなよと言うかのように、妹が肘で脇腹を突っついてきた。その肘に押された学生服の硬い感触と妹のシャンプーの匂いが、妙に不気味に感じた。
俺が父を殺したのだ。母も妹も口にはしないが、そう思っているに違いない。申し訳ないという気持ちとは違う。だが、何か罪悪感めいたものが胸の中を圧迫していった。
しかし、胸の中を占領していた風船は、半年も経たずにその空気を失い、しぼんだ。

高校生になり、放課後はバイトかマミの家かカラオケで時間を潰すようになった。
「ほれ、お前もリライトすんべ」
田村がそう言うので、早速マイクを握り、スイッチをオンにする。田村と同時にマイクをオンにしたものだから、キーンとハウリングするが、それすらもおかしくて仕方ない。
そんな男たちにはお構いなしのマミは、アイスティーにガムシロップを三つ入れた激甘な物を飲んでいる。その横で、中村さんが握り拳を振り上げ、一緒に熱唱し出した。
言うなれば、俺は青春を謳歌していた。
この世の春を謳歌する中で、家族とは疎遠になっていった。母とも妹とも話すことはなく、母とはメモ書きでやり取りをした。LINEが来ても既読も付けずにスルーすることもざらだった。父のことを考える時間すらなくなっていた。

いよいよ高校最後の年となる。
高校二年の夏頃から世間を賑わせていた「進路」については、特別に深くを考えることなく大学進学とすることにした。
田村も進学をすると言っていた。元カノであるマミについては詳しくは知らないが、調理師学校に通いパティシエになるのだと頑張っているらしい。確かに、あいつの作るチーズケーキはお世辞抜きに世界で一番だ。もう一度食べれるならば食べたい。そんなことを言えば、中村が怒るだろう。「カノジョの手料理が元カノに劣るとでも」と憤慨する中村の顔が思い浮かぶ。
時計を見れば、夜の0時を超えていた。さすがにそろそろ寝る準備でもするかと思い、ノートに目を向ける。
「え」という驚いた声が聞こえた。自分の口から発せられたものだと気付いた時には、椅子から転げ落ちていた。
中村のことを考えている時に書いたであろう落書きは、亡き父との久々の邂逅となった。

1+1=? 1+1=? 1+1=? 1+1=? 1+1=? 1+1=? 1+1=? 1+1=? 1+1=?

ノートにぎっしりと羅列されていた数式に、恐怖を覚えた。
それからというもの、ノートを開くと冷や汗をかくようになった。それがいつしか、ノートを見るだけで動悸がし、吐き気を催すようになり、と段々とエスカレートした。
そうやって、徐々に落ちぶれていく俺を眺めていた田村と中村は、静かに離れていった。
世の中が浮かれて騒ぐクリスマスイブにマミが家までやってきた。チーズケーキを作り過ぎたから届けに来たとのことだ。塩味が妙に厳しいケーキだった。
その夜、大学進学を諦めることを母に告げた。
母が頭を撫でる。子供のようだからやめてくれと言いたかったが、声を出すことができない。代わりに、遠くの海から嗚咽が聞こえてきた。母はいつまでも優しかった。

高校を卒業したのかどうかすらわからなかったが、いつの間にか桜が散り、雨が降り、蝉が鳴く。長い長い夏が終わり、短い紅葉が終わると少ししてから雪が降る。花の芽がほころび始める頃、定職に就いた。
耳かきについているポンポンの中でグレーになってしまった毛をピンセットで抜く仕事だ。楽しくはなかったが、工場に行き、見知らぬ誰かと黙々と同じ単調作業を繰り返す行為は嫌いではなかった。身の丈に合っているように感じる。
三年が経った。
寒くも暑くも、晴れても曇ってもいない日の朝、工場が潰れたことを知った。昨日までそこに確かにあったプレハブの工場が、綺麗さっぱりなくなっていた。そんなことがあるのかとしばし茫然と佇んでいた。
だが、「そんなこともあるんだよなぁ」と同じ制服を着た見知らぬおじさんが言うので、そういうものかと帰宅することにした。
職を失った焦りはあるが、落胆はしなかった。帰り道では、人生こんなものだよなと妙に覚めた自分がいた。

半年経つと、ニート生活が板についてきた。
行動範囲は半径6,284㎞と豪語するホームレスの友人もできた。おじさんなのか爺さんなのか、微妙な線引きが必要な見た目をしている男性だ。名前は知らない。ホームレスのおじさん——爺さん?——なので、「ムス爺」と呼んでいた。
ムス爺との出逢いは、職を失った日からちょうど三ヶ月後のある日のことだった。俺が市役所の前でリフティングの練習をしていたところに、突如として「道とボールに迷う若者よ」と声をかけてきた怪しいホームレスがムス爺だった。
その怪しさたるや、話せば話すほどに増幅していく。何せ、百科事典かと間違えるほどの活字が、白髪混じりの頭の中にギッシリと詰まっているのだ。古今東西のありとあらゆる事象を認識しているのではないかと思うほどの知識量と言えるだろう。しかも、その膨大な宇宙の中に、時折、嘘とも冗談とも真実とも誠とも判別のつかないことを織り交ぜてくるのだからタチが悪い。危うく彼の言うことの全てを鵜呑みにしてしまえば、おそらく誰もが秘密結社の一つや二つ、三つや四つは創りかねない。
そんなムス爺は、日頃よく口にしていたことがある。「あぁ、人生とは一つであり、二つである。もしくは、五つか、はたまた無限か」と。そう言っては、彼は右頬にある卍傷をポリポリと掻くのが癖だった。
深みがあるようでないような言葉を聞きながら、俺はいつも心の中にある言葉が浮かんでいた。
『1+1は?』
その言葉をムス爺に話すときは、関係が終わっても良いと思った時か、もしくは、この関係を永久に引き伸ばしたいと思った時だと決めていた。
しかし、いつの間にかポロリと口から溢れていた。
「なぁ、ムス爺。『1+1は?』って、今にも死にそうなおっさんに言われたら、あんたはなんて答える」
「さぁてね。その一が何を意味するかにもよるだろうよ。例えばな、1分と1秒を足せば61秒だ。ましてや、その人間の価値の尺度など、数式では簡単に表せんさ」
俺は言葉を失った。同時に、もっとムス爺と話したいと切望した。
だが、「夕焼けチャイムがお前を殺しにくるかもしれない。早く家に戻れ」とムス爺が言い出したので、敢えなく解散となった。
翌日、ムス爺に会いにいつもの場所に行くと、そこに彼の姿はなかった。彼どころか、彼の定住の地であるダンボールハウスすら綺麗さっぱりなくなっていた。彼はきっと半径6,284㎞のどこかを彷徨っているのだろう。
「デジャヴュかな……」
俺は誰に言うでもなく呟いていた。
綺麗さっぱりとなくなることについての耐性はついていたはずだが、「ブ」ではなく「ヴュ」という単語を使うあたりに、相当なショックを受けていたのだろうと後になって気付いた。
さらにその翌日。つまり、ムス爺と別れてから二日後、彼が逮捕される瞬間を目撃した。
半径6,284㎞どころか、半径628mの範囲であった。
彼はどうやら図書館で万引きを繰り返す常習犯だったようだと、いかにも噂話が好きそうなマダムたちがヒソヒソ話を大きな声で話す。彼女らはどうにも卑怯な顔をしていた。
それに、図書館の本は無料なのだから、「万引き」ではないだろうと思った。

ムス爺が捕まってから、ちょうど三六日後の昼下がりのこと。
マンホールの蓋の模様を調査し模写するバイトを始めた俺は、ムス爺が言っていたことが突如として気に掛かった。
「丸い丸いマンホール。暗い暗い穴の中。お星様がキラキラ輝くど真ん中。世界が壊れる大前兆」
もしかすると、俺がマンホールに関連するバイトをすることをムス爺は知っていたのかもしれない。もしくは、ムス爺が俺にマンホールのバイトをさせたのかもしれない。
バイトを続けていると「君の描くマンホールは芸術的であり写実的であり扇情的だ」と絶賛され、正社員に登用された。
仕事を始めてから、つまり、ムス爺が捕まってから、ちょうど三年と一日が経った日に、俺は遂に真理を発見するに至った。
マンホールの模様は、ある一定の規則性があり、それは誰かが示した暗号であるようだ。そのことについては、バイトを始めてから三日目で既に気付いていた。
だが、その暗号がどういう意味であり、何を知らせたいのかについては、さっぱりわからずじまいだ。
しかし、その日はどういうわけか、トイレの水が流れなくなり、「あぁ、そういうことか」と気付いたのだ。人生というものは、ふとしたきっかけが大きなうねりとなる。「バタフライエフェクトというのだとムス爺が言っていた。「初代は力作なのだが、二作目から駄作となる映画こそ名作だ」と訳のわからないことも続けて言っていた。
俺は早速、家にあるホワイトボードに暗号と地図を書き連ねる。「ホワイトボードは天賦の才。一家に一台、ホワイトボード」とムス爺が言っていたので買ってみたのだが、今の今まで無用の長物と化していた。今の今になって初めて、ムス爺に感謝をした。
印のついたマンホールを地図上で繋ぎ合わせると六芒星が浮かび上がる。その中心地は「白鷺小学校の跡地」であり、今は廃墟と化しているはずの場所であった。
並行して暗号を解読すると「スーパーしらたき。いつでもお得。なんでも特価。陰謀論もお買い得」という言葉に辿り着いた。まさか近所にある「スーパーしらたき」が陰謀の渦中にある存在だとは、その時まで知る由もなかった。次からは、「スーパーいそが屋」で買い物をすることにした方が良さそうだ。
そうと決まれば、せっかくなので、「スーパーいそが屋」に行って特売のステーキ肉でも買い、お祝いをしよう。
時間は深夜の一時を回っていたが、「スーパーいそが屋」は「二四時間いつでも新鮮」がウリのお店なので、行ったことはないが閉まっているということもないだろうと高を括った。何せ暗号を解いたご褒美なのだ。仮に多少お高くとまっていたとしても新鮮な肉が食べたい。
しかし、気付けば「白鷺小学校の跡地」に立っていた。自分の足でここまで来たのか、それとも誰かの意志によってここまで連れて来られたのか、記憶が曖昧模糊としている。
ボケッとしたまま突っ立っていると、突如として肩をポンと叩かれた。ダンボールを頭から被った、上下ジャージ姿の見るからに怪しい人物だった。しかし、不思議と恐ろしさは感じなかった。ムス爺なのかもしれない。何故だかそんなことを思ったからだ。
立ち尽くしていたところ、ダンボールジャージ人間がリズミカルに問いかけてきた。ダンボールのせいで、少しだけ声がくぐもって聞こえにくいところがあるのが玉に瑕だ。
「スーパーしらたき。いつでもお得。なんでも特価……ハイ!」
ハイと勢いよく言われましても……と焦ったが、「陰謀論もお買い得」という文章がスラスラと口から漏れていた。
ダンボールジャージ人間が再び「ハイ!」と言うと、深夜の住宅街に声が響き渡った。満点の星空とは言い難いが、雲のない月夜に響くその声は、美しい朱鷺の声のように聞こえた。
その声が合図となったかのように、学校跡地からダンボールジャージ人間がワラワラと湧き出てくる。その姿は、まるでタンポポの綿毛が飛んでいるように白くぼんやりとしていた。
ダンボールジャージ人間に取り囲まれ、為す術もなく学校跡地へと連れ込まれた。目隠しをされていたので、どこを歩いているのかはわからないが、階段を登ったり降ったり這いつくばったり、トイレで用をたすよう促されたりした後に、どこかの部屋の椅子に座らされ、目隠しが外された。
部屋は、思いのほか暖かかった。寒いのは苦手なので助かる。その温暖な部屋には、ジャージ人間が五名ほど鎮座していた。俺のことを連れて来た三名は、俺の後ろに屹立している。逃げることはできないぞという意思表示なのかもしれない。
殺されるのか改造されるのか、はたまたお茶でも振る舞われるのか。いずれにせよろくでもない結果が待っているに違いない。ええいままよと覚悟を決めて、椅子にふんぞり返る。
だが、思いがけない言葉が俺を待っていた。目の前に座るダンボールジャージ人間が言うことには、「お前は仲間だ。我々の同志だ。お前と我々は同じだ。お前に唯一足りていないのは、ダンボール——」とのことだ。
確かに、上下ジャージに黒サンダルを履いている俺と彼らの容姿はそっくりだった。ダンボールがないことを除いては。
「と、度胸と心意気と偏差値と愛と希望とIQと社会経験、及び学歴、加えて知能指数だけだ」と付け加えられたが。
なるほど。秘密結社というのは、驚くほどに学歴社会であるようだ。言うに事を欠いて「偏差値」と「IQ」と「知能指数」とほぼ同じような意味合いのことを三つ入れてきやがった。「お前はバカだ」と見ず知らずのダンボールに揶揄されたのだ。その時の俺の憤慨たるや。さすがの俺も椅子から立ち上がり、目の前のダンボール目掛けて殴りかかろうと腕を捲ったその瞬間に、ダンボールは再び唖然とする言葉を放つ。
「我々と共にするならば、時給は一万円」
「やります。入ります」
即答していた。貯金は底をついていた。生きるためには致し方ない。
それからの日々は、久方ぶりに楽しかった。「秘密結社ジャージダンボール団」——略して、JD団。ダンボールジャージ人間ではなく、ジャージダンボール人間が正式名称であった——の仲間は、皆、フランクで親切な人間たちだった。
マリカーやスマブラをやれば大騒ぎをし、桃鉄やドカポンをやれば総スカンを食らう。そんな当たり前の人間たちだった。
彼らと行動を共にするようになり、二週間が過ぎた。
たまには中華料理でも食べようという話になり、床が油でベタベタするが、味は一品という近所の店に行く。
「あぁ、ダンボールの」と店主が笑顔で気さくに挨拶を交わしてくるあたり、秘密結社JD団行きつけの店であろうことがわかる。
ムス爺を失くした時から口にすることのできなかった餃子をビールで流し込む。
「クワァーッ」という鳴き声と同時に、手の甲でグイッと口を拭う。頬がほんのりと赤くなるのを感じた。
「あぁ、そう言えばさ——」
俺は上機嫌になりムス爺から聞いた、様々な知識や物語を披露した。JD団の仲間たちは、目をキラキラとさせて、鼻をフンフンと膨らませて、いかにも面白いです、もっと聞かせてくださいと言わんばかりに、尻尾を左右に激しく降るほどに食い付いてきた。
そうして、俺が独演会を繰り広げていたところ、一七個目の話を言い終えた瞬間に、彼らの様子は一変した。
「いけない。このままだと闇に呑まれぞ。早く……早く、この国を出るのだ!」
そう叫んだかと思うと、脱兎の如く店を飛び出していった。
「チッ。またやってくれたか」
店主が苦々しい顔をする。どうやらJD団は、食い逃げの常習犯だったらしい。
「あの、これ……」と一万円札を店主におずおずと差し出すと、「兄ちゃんたちは『スーパーいそが屋』派閥だろ。同志のことをとやかく言えやしないさ」と断られた。
なんのこっちゃと思いながらもアジトに戻ると、そこは綺麗さっぱりと片付けられていた。マリカーもスマブラも、桃鉄もドカポンも何もかもがなくなっていた。
また空っぽに戻るのか。少しだけ下を向いていると、襖で閉められた畳の部屋から寝息が聞こえた。
何もかもが消えた。
そう勘違いしていた。
ただ一人、ダンボールを被ったまま寝ていた人物が残されていた。
「あ、あの……」
「グゥ」
「す、すみません……」
「グッ、ググゥ」
「いや、起きてるでしょ、あんた」
ダンボールがムクリと起き上がり「バレた」と聞き返してくる。
男性かと思っていたその人は、女性だった。襖を開けずに、畳の間から絶対に姿を見せない人物がいることは知っていた。だが、その人が「秘密結社ジャージダンボール団」の団長であることを今この瞬間に知った。
「みんなは」と聞くと、「消した」と答えが返ってきた。それ以上を聞くのはやめた。
団長はおもむろにダンボールを脱ぎ、「もういっか」と言って、JD団の解散を宣言した。
季節は秋に差し掛かろうとしていた。半袖では肌寒く、長袖を着るも太陽が登っている間は腕を捲りたい。そのような気候だ。

団長とは、結社解散後もよくよく杯を酌み交わした。深い関係にはない。ただの戦友というところだ。
彼女は資産家の娘で、株やFX、暗号通貨にアート、競馬に競艇等々の投資や投機を生業として生きていた。その金を元手に、二年前に秘密結社JD団を結党したと缶ビール片手に話していたことがある。
「そういえば——」
「どうしたの」
「JD団作った時ってさ」
「何、三時間前の話をこのタイミングでするの。変なの」
何本目かの缶の蓋を開けている時、プシュッという音を聞き、ふと結党の際の話を思い出したのだ。
「ホームレスのおじさん——ムス爺って呼んでたんだけど——がさ、図書館の本を万引きしたことがあって、それで——」
ムス爺の話をした瞬間、彼女はやにわに目を丸くし、俺の肩を掴んだ。押し倒さんばかりの勢いだった。
「そ、そのおじさん、もしかして、右の頬に卍型の傷がある人じゃない」
脳を揺さぶられていた。物理的にも精神的にも、だ。
ムス爺は、どうやら団長の父の生き別れの弟の嫁の絶縁となった兄の近所に住む大富豪の家の植栽師ということだ。要は、彼女とはなんの関係もないということになる。
「その植栽師のおじさんが教えてくれたんだよね。ダンボールとジャージが世界を席巻するだろうって。だから、私はJD団を結成したんだ。お金なら有り余っていたし、秘密結社って作ってみたいじゃん」
彼女が笑うと犬歯が光る。
ムス爺の話で俺たちは一通り盛り上がった。時折、嘘とも冗談とも真実とも誠とも判別のつかないことを織り交ぜて話すへんんてこな知識人についての話を、飽きることなくし続けた。
「あ、そうそう。そのおじさん、言ってたよ。若い友達ができたんだ、って。算数が弱いみたいで『1+1』の答えを尋ねてきた変な奴だって」
彼女は続けた。ムス爺さんがいなければ、私と君は出逢わなかった。私はJD団を結成しなかったし、君はマンホール模写をすることはなかった。
「……それ、本当に俺のことかな。友達って、本当に俺のことなのかな」
「どうだろうね」と彼女は言った。「最後に図書館で盗ろうとしたのは『小学一年生向けの算数ドリル』だったらしいし、君じゃあないのかも。ふふふ。変な話しちゃったかな。ごめんね」
彼女の言葉は途中から耳に入って来なかった。俺のせいで、ムス爺さんは捕まったんだ。知りたくない事実を知ってしまった。
俺はその場から逃げた。自分自身を綺麗さっぱり消してしまいたかった。
「またもや消してリライトしちゃったかな」
去り際に団長の犬歯が見えた気がした。

ホームレスとなった俺は、あらりとあらゆるところを放浪した。半径6,284㎞のちょうど半分の長さを歩きに歩いた。
そうして一年が経ったとある日、夜景の綺麗な街へと辿り着いた。
せっかくの夜景を見ようと小高い丘に上り街を見渡す。この風景が一時的に、そして、永遠に失われたものなのだろうと思うと、胸が締め付けられる思いがした。
その場で吐いた。
その街の高低差にやられたこともある。
だが、美しさを保つには不都合が必要なのだと思い知らされた気分がしたことに起因していることを理解していた。
もう一度、電柱に向かって吐いた。幸いなことに誰にも見られることはなかった。
ふぅ、とその場に腰掛けた。自身の吐瀉物の匂いが漂ってきて目に悪い。だが、どうしてもその場から離れることはできなかった。
そうしたところに一人の女性がゆらゆらと近付いてきた。夜なのにサングラスをかけ、白いマスクを付け、深く帽子を被っている。そこだけを切り取れば芸能人のお忍びコーデのように見えなくもない。だが、男性物とおぼしきサイズの合わないロングコートを羽織っており、さらにはコートから寝間着のようなズボンが覗いている。どう見ても不審者だ。
しかし、吐瀉物の隣で満天の星空を眺めている俺も十分に曰く付きの人間であろう。不審者に不審者を足し合わせても、不審者でしかない。それならば、何も問題はない。
「大丈夫」
彼女はその言葉を発した。俺のことを気遣ってくれようとしていた人に対し、なんて失礼なことを考えていたのだと己を恥じた。
だが、どうやら彼女の意図は違った。
「私は大丈夫。私は大丈夫。きっと大丈夫」
彼女は自身の身を案じていた。
それからしばらくすると、彼女もストンとその場に座った。吐瀉物を挟んで会話とも言えない会話を繰り広げる怪しい女性とホームレスの俺。吐瀉物と電柱と不審者二人。
彼女は、それはそれは楽しそうに話をした。しかし、何を言っているのかは定かではなかった。全てが支離滅裂なのだ。
かろうじて理解しようと努めたところ、「おかあさん」「わたし」「こども」「るすばん」「かわいい」「おとこのこ」「かいざー」「こわい」という言葉が繰り返し表れてくることに気が付いた。おそらく彼女には、幼い息子がいるのであろうと推測される。
「お子さんは今、どうしてるんですか」
聞かなければ良かったのかもしれない。楽しげな彼女の目が見る見るうちに曇っていったのだ。彼女は俯いたまま話さなくなった。
彼女がガタガタと震え出したので、彼女の手をそっと握った。この世のものとは思えないほどの冷たさを感じた。それに、先程からどうしても嫌な予感がしていた。
俺は無理矢理に彼女の家に押しかけることにした。
「……家、行きましょう」
彼女の温もりを奪ったものがなんなのか、俺は知りたくなった。好奇心なのかもしれない。絶望だったのかもしれない。ただのお節介だったのかもしれない。その時の俺を突き動かしたものの正体は、未だにわからない。
彼女の家に着いた。
部屋の中から、怒声と罵倒が絶え間なく続いているのが聞こえる。野獣の咆哮かと聞き間違える凶暴さが滲み出ていた。同時に、辺りの家からは笑い声が聞こえていた。
ガチャリとドアノブを回す。家の鍵は掛かっていなかった。
子供が部屋の隅で蹲って泣いていた。その泣き声が聞こえないほどに、野獣は猛り狂っていた。人の形をした災いなのだろう。残念ながら彼女は悪魔と住んでいたのだ。
ケルベロスは、舌をブランと垂らし、涎を撒き散らしながら、子供の顔面を躊躇うことなく蹴ろうとする。
だから、俺は子供と悪魔の間に入る衝立となった。避けることなどできなかった。避ければ、子供が獣の餌食になってしまう。
この部屋には人間など存在しなかった。魔物と衝立と妖精と天使しかいない。その和洋折衷な状況において、ケルベロスだけが雄叫びを上げ続けた。

目が覚めると、そこはゴミ捨て場であった。
妖精と天使は無事に天界へと還れただろうか。その願いを届けようにも、殴られ続けた顔は熱を帯び、目を開けることすらままならない。
ぼんやりと曇った空がうっすらと見える。あぁ、俺は遂に太陽にまで見放されたのか。それを実感した。
天へと手を伸ばす。もしくは、太陽を盗み取るように手をかざす。そうして、人差し指だけを真っ直ぐに突き上げると、嗚咽が込み上げてきた。
「俺に『1+1』は勿体なかったんだな」
気付けて良かった。気付けぬままに死ぬところだった。俺が誰かと関われば、不幸を生む。悪魔は俺だったのだ。綺麗さっぱり消えるべきは、この俺だったのだ。父は、それを知っていた。父が告げたかったことは、何を差し置いてもそういうことだったのだ。
気付いてからは早かった。
坂の多いその街の、奥深くにある山の中。色とりどりの紅葉が、日の光を浴びてキラキラと輝く森の中。ザックザクッと葉を踏み、ギュッギュッと土を踏む。
日当たりが良く、隆々と長ける木々に囲まれた土地に辿り着いた。
「あぁ、ここが良さそうだ。1人+1本は?」

目を開けると、白い天井が見えた。
次いで、懐かしい顔も見える。
「お母さん! お兄ちゃんが……お兄ちゃんが起きたよ!」
騒々しい声が聞こえる。「本当に」と驚く声も聞こえるが、水の中にいるような不思議な感触がある。
母は俺の体に覆い被さるようにして、すがるようにして泣いてくれた。妹は両目をハンカチで押さえながら、ナースコールを押していた。どうやら俺は病院のベッドの上にいるらしかった。
「……ただいま」
その声がきちんと出せたのか、二人に届けることができたのかはわからないが、二人の声が揃った。
「おかえりなさい」

それから数日後、悪性腫瘍が見つかった。親父と同じ癌だ。
「あなたは見つかっただけでもめっけものなんだから」
母はそう言った。癌のことを言っているのか、はたまた、俺自身が息のある間に見つかったことを言っているのかはわからない。ダブルミーニングということもありうる。
山中で自殺を図った俺は、運良く見つかった。ケルベロスと対峙したあの日に出逢った女性と息子が第一発見者だったらしい。
なぜ、そんな早朝にあの母子が山奥にいたのか。聞くまでもなさそうなことなので、俺も母も妹も問うことはしていない。それは聞く必要のないことだ。
だが、その出来事は、特別これといってめぼしい事件のなかった田舎町において、当時の地方新聞の一面を賑わせたらしい。どう見ても山登りには似つかわしくない服装をした母子が、麓の派出所にボロボロの服装で現れた。そんな母子が見つけたのは自殺を図った謎の青年。聞けば、その女性と青年には少なからずの関係があったようで……などと有る事無い事が根掘り葉掘り骨の髄までしゃぶり尽くされていたことを後から知った。
同時に、弱者を痛ぶる怪物の存在も世に暴かれることとなった。今は大人しく塀の中で暮らしているらしいと聞く。
「見つかっただけでもめっけもん、ね」
病院内ならば、補助なしで歩ける程度には回復したものの、俺が病室の外に出ようとすると、心配性の母と妹のどちらか一人が付き添いと称した監視役としてついてくるようになった。そのままいなくなる可能性があるような兄なので、当然と言えば当然の処置なのかもしれない。
病院の個室扉というものは、意外な程に丈夫にできている。か弱い病人ならば、開けるために一苦労することだろう。それくらい開けられないと外には出ちゃダメよってことでしょ、と妹が笑っていたが、さもありなん。
扉をゆっくりと開けると、病院独特の喧騒と微妙な胸騒ぎが襲ってくる。患者として寝巻きを着て歩いていると、この場にずっといてはいけないのだと責められるような気分になるから不思議な場所だ。
廊下は薄暗く、床は少々黄ばんでいる。病院という場所が清潔であるというのは、おそらく誰かの冗談なのではないかと思いたくなる。
例え距離は短くとも、気持ちを滅入らせるに必要十分条件を備えた廊下を歩く。どうにも目の焦点が合いにくい。このまま進んで良いのかどうかも心許ない。
その廊下を歩いて自販機まで辿り着くと、すぐ近くのエレベーターがチンと鳴る音が聞こえる。自分には関係のないことだと気にかけることはなかった。
ガシャンと落下した缶コーヒーを手に取り、病室に戻ろうと後ろを振り向いた時、彼らがそこに立っていた。
それらは、幽霊でなければ幻覚だろうと思った。何一つリアクションが取れなかった。リアクション芸人というものは凄い技能だ。人間は本当に驚いた時には、脳も身体もカチンコチンに固まるのだから。
見かねたのか、ムス爺がやぁと手を挙げた。その右隣には団長が、左隣には命の恩人である母子が並んで立っている。
その人たちのことを認識した瞬間に、足が勝手に走り出していた。
このような恥ずかしい姿を見せたくはない。こんなにも弱った自分を晒したくはない。綺麗さっぱり消し去ってしまいたい。
きっと以前の自分ならば、そう思ったに違いない。
でも、今は違う。
早く、少しでも早くその体温に触れたいと願った。ほんの僅かでも届いてほしいと手を前に差し出していた。
ムス爺とガッシリと抱き合った。
どうして彼らがここにいるのかは聞かなかった。ムス爺がいて、団長がいるならば、どんなことだってできる。
化物の猛攻に耐えた子供が「おみまい」と言ってチーズケーキをくれた。病室に戻りケーキを食べた。それは妙に塩分の厳しい味だった。

病床に臥せてから早くも丸二年が経とうとしていた。やることもなく、時間を潰すのは勿体無いよと団長が言うので、自叙伝なるものを記すようになった。君の話は面白いから、本にして売ってあげよう。結婚もしたのだから、奥さんに楽をさせてあげたいだろうしねとそそのかされたのが事の始まりだ。
筆を走らせていると、病室のドアがガラガラっと雑に開いた。
「父ちゃん、ただいま!」と元気な声が部屋中に反響する。「楽しかったかい」と聞けば「楽しかった」と返ってくる。
「ただいま」と妻が言うが早いか「ティッシュペーパーが切れてるみたいね。下で買ってくるわ」と言って、部屋から出て行った。
妻と息子とは、あの街で出逢った。息子となった慎太のことを命を賭けて守り抜いた。あの時の決断が今に繋がっている。
「父ちゃん、これ開けて」
慎太がおもちゃの箱を開けてくれとねだる。母ちゃんに買ってもらったのだと自慢をする。その様子が微笑ましく、目頭を抑えた。
箱を開けて、慎太に手渡すが、どうにも違和感を覚えた。
「あれ、それ以前に父さんが買ってあげたやつと同じじゃないのかい」
「ふっふっふー」と慎太が不敵な笑みを溢す。「じゃあ、そんな父ちゃんに問題です!」
何がじゃあなのだろうか。子供というものは脈絡がない。
「ここにトロピカルサンダーカイザーがいます。そして、もう一人のトロピカルサンダーカイザーもいます」
そう言うと、慎太はその二体をベッドの下に隠した。
「では、今、このベッドの下には何がいるでしょうか⁉︎」と慎太がニヤニヤしている。
「……うーん。そうだな……なんちゃらカイザーが二体、じゃないかな」
そう言う父親を見て、慎太がケラケラと笑い、大きな声で「ブッブー」と答えた。
「正解はーーーーー」と大きく溜めると一息で言い切る。
「超絶スーパーミラクルハイパーウルトラ合体!トロピカルサンダーエレクトロニカマウンテンゴールドカイザーデラックスブレイドゴッドでしたーーーーーー!」
慎太の声は脳天を直撃した。脳天から爪先まで、一本の鋭い稲妻が瞬時に身体を貫通していった。
脳内には、今まで出逢ってきた人々の顔が、声が、涙が、仕草が、優しさが、愛情が、笑顔が浮かんでいた。
一人ひとりとの積み重ねが、僕の足跡に刻まれていた。一つ一つの経験が、僕をこの場に運んでくれた。今までも、きっと、これからも。
「それが、答え……」
「うん、そうだよ!」
ハハ、ハハハ、ハハハと笑うと、涙が溢れ出した。それを見た慎太も一緒にケラケラケラと破顔していた。
「なぁにー。二人して、そんなに笑って」
扉が開く共に、ティッシュペーパーを持った妻が苦笑いをしながら入ってきた。
窓の外は、黄色く色づいた銀杏の葉が地面を覆い尽くしていた。犬が楽しそうに吠える声が聞こえる。そろそろ冬になろうという季節だ。妻が少しだけ窓を閉めた。

〈了〉


《あとがき》文・山城航
ちょうど一年前、地元の友達と数人で長崎に行きました。
昼過ぎに現地に着き、街を練り歩いていると、ある事に気が付きます。
『この街…やたら坂が多いなぁ…』
ここ数年たいした運動もしていない僕にとっては、毒エリアのようにダメージが蓄積していきます。
そして日が沈む頃、ホテルにチェックイン。
ホテルのレストランで晩御飯を食べ終え部屋に戻ると、窓の向こうに綺麗な夜景が広がっていました。
『この景色をいつか漫画で…!』と思い写真を数枚撮っていると、またもやある事に気が付きます。
『あぁ…街が波打ってるから綺麗なのか』
日中に体験した苦労はこの景色のためだったのかと一人で感動していると、友達が「飲み屋でも行こうや」と言い出しました。
ホテルを出て、階段状に並んだ墓地を下った先が飲み屋街だったので、そこに向かうことに。
(飲み屋でのエピソードは割愛)
ホテルに戻る途中に友達が「ちょっと休憩しよ」と言ったのでコンビニに立ち寄りました。
友達の買い物が終わるのを外で待っていると、一人の女性が僕に話しかけてきました。
初めは客引きかと思いましたが、その人の喋り方や話している内容を聞いていると、『いや違うな…』という風に見方が変わっていきました。
というのも、口から出る言葉のほとんどが支離滅裂で、何について喋っているのかが一切分からないからです。
ただ、当の本人はめちゃくちゃ楽しそうに喋るので無視する訳にもいかず、こちらもデタラメな相槌で応戦する事に。
女性「◎△$♪×¥●&%#です!」
僕「確かに、それめっちゃ分かります。」
そんな成立しない会話の中にも、たまにヒント(理解できる文章)のようなモノが垣間見えます。
「26歳」「大学に通ってる」「今日は画家をイメージしたコーディネート」などなど…。
どうやらこっちが質問したら“一瞬”答えてくれるみたいです(すぐ話が支離滅裂になるので“一瞬”)。
会話が始まって数分が経った時、ふと気になる言い回しが出てきました。
それは、その女性が自身のことを「お母さん」と表現したことです。
『え?子供おるん?』と思った僕は即座に現在時刻を確認。
たしか深夜1時〜3時辺りでした。
『え?子供は?今どうしてんの?』気がつけば頭の中はそれに関する疑問ばかり。
すると買い物をしていた友達が外へ出てきて「ちょっと来て〜」と僕をコンビニの中へ誘ってきました。
「じゃ、そゆことで〜」とその女性に言い残し、コンビニに入って何の用か聞くと、案の定助け舟でした。
「会話から抜け出せんくなっとると思ったけん呼んだ。…てかあの人ヤバくね?」
「うん、何言いよるか全然分からん」
そんな話していると、さっきの女性が来店してきました。
そして何故か大量のペットボトル飲料を購入。
『不思議な人だなぁー』と横目で見ていると、こっちに歩いてきます。
僕達の目の前に立った女の人は、大量の飲み物が入った袋をこちらに差し出してきました。
「さっきはいきなり話しかけてごめんね、これあげる」
初めは拒否しましたが、あっちもあっちで折れる気配が無かったので、結果有り難く頂くことに。
受け取る時に、友達がさりげなく聞きました。
「お姉さん酔ってます?」
「酔ってないよ」
「お子さんはどうしてるんすか?」
「…預けてる」
さっきと比べて明らかに歯切れが悪くなった女性を見て何かしらを察した僕達は、飲み物のお礼を言い、そそくさとそのコンビニを後にしました。

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