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You'll never walk alone.

キャッチーなタイトルですが、僕の中で最近ブームなので思考を整理しておきます。
なるべく論理的に書こうとしていますが、言葉の定義とか網羅性とかいろいろ詰めていないので、そこは「これはポエムなのだ」と思ってご容赦下さい。

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①人間は1人で生まれてきて、1人で死んでいきます。
これは疑いようのない事実です。

②他人を本当に理解することは原理的にできません。同様に、自分のことを誰かに丸ごと理解してもらうこともできません。だから、自分の人生と他人の人生が”交わる”ことはありません。
これも真実でしょう。

③運とか偶然ではなく、自らの強い意思と努力がちゃんと報われる世界は素晴らしい。だから、1人1人を独立した個人として扱う「自己責任論」は我々が幸せに生きていくための前提なのです。
・・・これもまた正しいと思います。

これらの3つの考えはどれも正しく、そして強い力を持っています。原理原則といって差し支えないと思います。

でも、これら(だけ)が揃った社会って本当に素晴らしいんでしょうか。

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僕らが自分自身の意思で決定していると思っていることは、本当に全て僕らの考えや意思によるものでしょうか。
いや、そうは思えません。僕らの意思決定は、必ず他人や環境の影響を受けています。そもそもそこに選択肢があること自体が、他者であり環境です。

僕らが、自らの意志と努力を行使できているその「能力」は、本当に僕ら自身の努力によるものでしょうか。
いや、そうではありません。僕らが意思と努力の力を信じられるのは、それを信じられるだけの成功体験があるからです。成功体験は、必ず他者と環境によって生み出されています。

自分を100%理解してもらうことは不可能なので、そもそも理解してもらおうとすることは諦めた方が良いのでしょうか?
それも違うと思います。100%理解してもらえなくても、8割理解してもらうことは可能でしょう。同様に、相手のことも不完全ながら理解することはできます。

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先ほどの3つの考えは、この社会(=資本主義×民主主義)のルールであり、大前提です。僕は、これを否定しません。

でも、同時に、実際の社会はそれだけでは成り立たないと思います。

僕らは気づいていない内に、いろいろなものに影響を受けています。時に自然と他人の顔色を窺い、空気を読んで意思決定します。環境に与えられた選択肢から選んでいます。

僕が今こうやって抽象度の高いテキストを書き発信できているのは、決して僕自身の意思と努力だけによるものではありません。
これまでの人生の中で、僕に教養を与え、抽象度の高い議論にポジティブなフィードバックを与えてくれた人がいたからできているのだと思います。

僕らは、手探りで他人と接し、つながりを作ります。全ての人の繋がりは、不完全な相互理解に基づいています。

…このようなことを考えるにつけ、原理原則だけを大義名分に掲げて生きていくことには意味が無いように思います。
原理原則はあくまで単なる”ルール”であって、「実社会はこういう力学で動いている」という事実です。

だから、原理原則をいくら追求しても、意味は見つかりません。

原理原則は正しい。
その力学を使うことなしに、何かを成し遂げることは出来ません。

でも、それを価値の尺度にしてしまうと、それはディストピアでしょう。

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この状況は、現代における「お金」に似ています。

お金は、全ての物事を取り込んでいきます。お金は、およそ全てのモノとの「交換性」を持ちます。何かに「価格」がつけられると、その分だけお金が持つ力は強まります。お金は、その力を自己増殖していきます。

実際、お金を切り離してこの世の中で生きていくことは不可能でしょう。

でも、お金自体に意味を見いだしお金を目的にしてしまうと、非常に無機質な人生になってしまいます。合理性を突き詰めた先で、意味は消失します。

そんな話だと思っています。
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もう一つ補助線を引いておきます。

僕は大学生のときに、哲学を専攻していました。
ほぼラクロスをしていたので、あまり真面目に勉強には取り組んでいませんでしたが、とある授業で一回だけ、いわゆる鬼教官の堅物教授に満点の「優」をもらったことがあります。

テストは、小論文形式でした。

「言葉と意味について、自由に論ぜよ」。

一般的な言語哲学のアプローチに縛られることなく、自由に考えてよいとのこと。

この小論文で僕は、こんなことを書きました。

・言葉自体に意味はない。言葉は具体的な個別事象を"大体"理解するために便宜的に付けられたラベルです。

何らかの物事に言葉=ラベルを付けた時点で、その物事の本当の意味=真実は見えなくなる。

・続いて、僕らが物事を言葉で理解しようとすればするほど、真実の存在は、まだ言葉で説明されていない部分に追いやられる。

・そうやって、物事にあらかた言葉が割り振られて説明されると、逆に真実は見えなくなる。

・では、果たして僕らが必死に物事を言葉で説明しようとすることに、意味はないのか。真実には、どうやったらたどり着けるのか?

・真実は複数の言葉を組み合わせた”関係性”の中にあるのではないか。

・全ての物事は、相対化することによって初めて理解されます。その物事にどれだけ向き合っても、その本当の姿は見えてきませんが、他のものと比較することで、その輪郭が見えてきます。そして、相対化を繰り返すことによって、物事の解像度は上がっていきます。

・そして、完全に理解することは出来なくとも、無数の相対化を行うことで、限りなくそのモノの本質に近づきます。

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なにぶん2001年の話なので、ちょっと記憶が怪しいですが、大体こんなことを書いた覚えがあります。

哲学を志す人は、真理にたどり着くために言葉の意味を磨き、紡ぎます。でも、そのプロセスの先には、求めているものはありません。

本当に求めていることは、無数の物事を言葉で紡いでいったその過程に見い出されるものなんだと思います。

この話で僕が伝えたいのは、
・本当に大事なものは、ルールや合理性の中にはない
・真実は、関係性の中に見いだされる
・ものごとは、0 or 100ではなく、どれだけその本質に肉薄できるかというグラデーションで理解される
ということです。

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話を元に戻します。
先に示した3つの原理原則だけを突き詰めた先には、無味乾燥な社会が待っています。
それは、人間を独立=孤立した個人として捉え、他人との関係性は全て、お互いが自らの目的のために意思をもって行う「合理的な取引」だと考え、「自己責任」の名のもとに全ての行動の原因を個人に押し付け、1人で生まれ1人で死んでいく社会です。

先にも書きましたが、僕はこれらの原理原則は圧倒的に正しく、現代において人はそのルールからは逃れられないと考えています。真理です。

そして、だからこそ、「そんなことはわざわざ言わなくて良い」のだと思っています。
それは単なるルールであり手段であって、必要な時に必要な人が使えば良いものです。

なので、「私は、自己責任論を重視するスタンスです」という発言にはほぼ意味がないと感じます。それは「私はニュートンの法則を重視しています」と言っているのと似ています。

本当に大事なことは、社会の中で生きる意味を見いだすことです。
そしてそれは、関係性=繋がりの中にしか見いだせません。僕ら自身が、他者との繋がりによって成り立っているからです。

自分はそんなことを意識していなくても、僕らが、ただそこに居るだけでいろいろな影響を与え、同時に与えられています。それは、心理的安心感かもしれませんし、圧迫感かもしれません。

自分自身を理解するのにも、他者とのつながりを理解する必要があります。望む望まないに関わらず、僕らは常に他者との関係性の中にあるのです。

僕自身は積極的に他者に関わろうとする人間ですが、別にそれが正しいことだとは思っていませんし、皆がそうするべきだとも思っていません。

でも、
「自分は社会とつながっていて、切っても切り離せない存在なのだ」
という認識を持っておくことは、万人にとって非常に大切だと思います。それを認識せずに生きるのは片手落ちでしょう。

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昨今、個人主義と自己責任論の存在感はどんどん増していると感じます。それは、その正しさとシンプルさゆえに、広く拡散しています。

この文章は、自身の思考の整理もありますが、どちらかというとそんな現代への警鐘として書いたつもりです。

この文章に、何かを感じてくれる人がいれば、ありがたいです。

You'll never walk alone, anyway.

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