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あの時の「本音」

久々の投稿だ。
サボっていた訳では無い。

書いても書いてもボツの量産だっただけである。

能書きを書くことに飽きてきたので、
学生時代の本音を書いてみることにした。
もう時効だろうし。

幼少期から海外に興味を持ち、
母親の影響からニュースを見ることが多かった僕が、
国際協力に興味を持つのはある意味必然のことだった。

ただしなにごとも0から1を作り出すのが苦手な僕は、
いきなりボランティアに参加しようとはならない。

大学1年生の時に学校のプログラムで英国を訪れた
僕は、2年生の夏を迎える前になってやっと
ボランティアというものに参加しようとしていた。

たまたま声を掛けられた団体のプログラムに、
僕にしては珍しくそのままのノリと勢いで
参加したわけだ。

結局その後の僕の学生生活は、
その団体にどっぷり浸かっていく。
最後はプログラムリーダーにまでなった。

浸かっていくことを望んでいたかといえば…
そうでは無かった。

自分の考え方とその団体の考え方が
マッチしていなかったのは百も承知だったが、
その団体が保護している子どもたちのことが
気になってしかたなかったのだ。

「義務感で動くようになったら
それはボランティアじゃない。
労働であって、給料が出されるべきだ。」

年に数度しか会わないが、会えばいくらでも話す。
そんな親友から出た言葉である。

まさしく、だと思った。

使命感ならいいだろう。
誰に言われるでもなく、
それでも自分がやらなくてはいけないと思うのが
使命感であって、そこに「やらされてる」感はない。

様々な海外ボランティア団体が乱立し、
大学も本格的なプログラムを用意する今、
参加者の獲得競争はなかなかのものがある。

参加費だけでは無い他の方法でも資金を集めることが、
必要な時代になっていると考えていた僕にとって、
収入の7割が参加費というその団体の
収入バランスは理解し難いものであった。

そもそも東北震災時にプログラムを開催できないという
経験をしているのにも関わらず、
なぜこのバランスで問題ないと思えるのか。

数十人という子どもたちの命を預かっている団体が、
何かあってプログラムが開催出来なくなったら、
どう責任を取れるのかも分からない収入のバランスで
果たして許されるものなのか。

コロナ前から僕はそんなことを考えていたのだ。
(ちなみにコロナの時も結局学生たちの力で何とか寄付を集めるという情けない有様だった。)

それだけでない。その7割の収入を得るための責任を、
ボランティア活動でしかない
プログラムリーダーに押付けてくる。

押し付けているという意識を
持っていなかったのかもしれないが、
よく考えて欲しい。

繰り返しになるが数十人という子どもたちの命を
預かっている団体だ。

その収入源確保に、無給の学生が奔放する。
上手くいかなければ先輩プログラムリーダーから
お叱りを受ける。
ややもすると少し強引な手法を使ってでも参加者を
確保しようとさせてくる。

これが押付けじゃないというのなら頭が悪過ぎる。

そんなやり方は僕は望んでいなかった。
人数が多ければいいプログラムが作れるなんて保証は
どこにもない。

実際僕の担当プログラムは
比較的多くの参加者が集まったが、
明らかに団体の考え方と合わない参加者に
僕はプログラム期間中翻弄させられることになった。

一言に海外ボランティアと言っても、
人によってやりたいことはかなり異なる。
考え方も違う。

合わない人にまで強引に参加させたって
誰も得をしない。

誰でも分かるような理論こそ通らなくなるような
収入バランスになっているのは、大人のせいなのに、
大人はそんな状況に気づいてもいないように思えた。

続きは後編へ

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