音楽による記憶の解放

集中して執筆しないといけない期間に突入すると、心の平穏を保つために音楽を聴く。独立して間もない頃、原稿の締め切りが立て込んで寝食もままならずになっていたときは、日常生活のあらゆることに支障をきたした。

私の場合、執筆時間が1日12時間を超えると誤作動を起こしまくるようだ。たとえば鍵をかけ忘れて外出してしまったり、自転車に乗っていて車に轢かれそうになったり、人との約束の日を勘違いしてしまったりだとか。

たぶんこれは、脳を酷使しすぎて超疲労状態になるんだろう。寝ても疲れが全然とれなくなって、精神的にもギリギリになる。その症状を打破するために、編み出したのが音楽で適度に休息タイムを作る方法だ。

編集者の中には音楽を聴きながら作業ができる人もいるけど、私は歌詞が無駄に頭に入ってきてしまうので、執筆中は無音かカフェでかかるサウンドぐらいがギリギリライン。1時間は集中して執筆、10分は好きな音楽を聴くという学校の授業のようなタイムスケジュールでこなすととても気持ちよく書ける。

社会人になってからは終電近くまで働くような生活を送っていたから、一番じっくり音楽に浸っていたのはやっぱり学生の頃だ。その頃にCDがすり減るほど聴いていた曲が、今でも心にしっくりくる。

音のもつ記憶というのは恐ろしい。日中はただ好きな曲という理由だけで何気なく聴いていた曲でも、夜になると違った作用をもたらす。まず、見る夢のほとんどが10代から20代の頃の自分になるのだ。

少し不穏な話になるのだが、その頃の私は毎日に絶望しながら生きていた。群れることを好まない性分だったこともあり、少人数制で閉鎖的な環境だった学校生活に強いストレスを感じていたのだ。よく言えば感受性が高い、ゆえに他人の感情の塊をまともに食らってはよく疲弊していた。だからこそ、他人と精神的な距離をとることで、自分を守ることに必死になっていたのだと思う。(さすがに今では、そんなことはないけど)

20代前半の頃の私は生きることにこれっぽっちも執着がなかったからこそ、無敵だった。中東の戦地国にだって躊躇いもなく行けたし、一歩間違えば爆死するかもしれない花火打揚師の活動にだって気軽に参加できた。何も守るべきものがないからこその強さというのは、なんと無謀なのか。

かつて身体にまとわりつくようにして感じていた独特の閉塞感のようなものが、音楽をトリガーにして夢の中で一気に破裂する。大事だった人が抱える辛さや痛みをなんとかしてあげなければと思うあまりに自分が傷ついてしまうような、思春期特有の繊細さ。

あの人は今、元気にしてるかな?というそんな甘美な感情とはまた別の、瘡蓋の中の膿のようなドロッとした類のものが、まだ自分の中に残っているんだな、ということを思い知らされる。

誰しも大人になれば、過去の自分にうまく折り合いをつけて前に進むと思うのだけど、蓋をしてすっかり忘れてしまったように見せかけていることだってきっとある。私は今まで地中深くに埋めて見ないようにしてきたものをあえて掘り起こすことを原動力に、執筆活動を続けていきたいのだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?