ワタリドリ製作所に込めた想い

2016年1月、ワタリドリ製作所を立ち上げた。

「渡り鳥が軽やかに国境を越えて旅するように、好きな場所で好きな人たちと一緒にモノづくりをしたい」

その願いを込めて、東京の片隅でひっそりと物書きの仕事をスタートした。メディアの立ち上げや特集記事の企画からお手伝いすることが多かったので、自由な発想力が必要なプランナーとしての心の在り方も、ワタリドリの屋号に託した。

とても自由で晴れやかな気持ちだった。ひとところに留まると環境そのものに飽き飽きしてくるので、場所やメンバーが固定されないフリーランスが一番性に合っていたのだ。

幼い頃から身体が弱かった私にとって、本は世界を自由に旅させてくれる“どこでもドア”のような存在だった。

気に入った作家の本を片っ端から読みあさり、小学校低学年の頃には、1冊500ページを超える世界の童話集と日本の昔話全集を何度も何度も繰り返し読んだ。本で知らない言葉を見つけたら、国語辞典で調べてマーカーを引くという謎の遊びにハマっていたこともある。

大学院を出てから大手広告会社に就職し、企画や文章に関わる仕事に就いた。そして書籍の編集者に転身してからは、それこそ毎日浴びるように活字を読んだ。企画を考えるのに流行りの本を常にチェックするし、新刊本を作るのに数冊の類書を読み込む。そして著者から送られてきた原稿には日々、膨大な量の赤入れをし、帰りの電車ではスマホでニュースをザッピング。生活のほとんどが活字にまみれていた。

そしていつしか、大好きだった本を読みたいと思わなくなってしまった。売れ筋をチェックするために、仕事帰りに本屋に足を運ぶのが日課だったが、つい編集者モードで書棚を眺めてしまい、純粋に本を楽しむことがもうわからなくなっていたのだ。息つぎの仕方を忘れてしまったような、妙な息苦しさを感じた。

お酒もタバコもやらない私にとっては、本を読むことは息抜きの一つだったのに、読書そのものが大きなストレスとなった。その頃にちょうど妊娠が発覚し産休となる。

無痛分娩で出産したが、麻酔薬でアナフィラキシーショックを起こし、一歩間違えば命を落とすほど壮絶な出産だった。最初の1ヶ月は起き上がることすらままならず、身体が完全に回復するまでに半年近くを要した。正直、その頃の記憶がほとんどない。身体が動くようになってからは、子どもと一緒によく散歩に出かけた。我が子を愛おしいと思うのと同時に、社会から取り残されてしまったような寂しさを覚えた。

誰かと言葉を交わしたい欲求が日々、むくむくと湧き起こる。家で映画をみて過ごすのにも飽きてしまい、いよいよもう何か社会との接点がないと発狂しそうだと思っていたところへ、知り合いから執筆の依頼が舞い込んだ。

自分の心の安定のため、そして小さな自尊心を満たすために、ただただ吐き出すように書き続けた。おそらく半年で100本近くは書いただろう。当時の私にとっては社会復帰前の筋トレみたいなものだった。

育休が明けて編集者の仕事に戻ったときに、ある事実に直面する。どうも私は編集者をしているときよりも、自分で何かを書いているときの方が何倍も幸福度が高いということだ。そしていよいよ自分の気持ちに嘘がつけなくなり、1年後に独立した。

私は今、企画と執筆を主軸に仕事をしている。本の企画を考えて文章を書いたり、人やモノを取材して記事にしたり、企業の集客や採用など広報系の役割を担ったり、イベントに登壇してスピーカーをしたりと内容は多岐に渡るが、そのどれもが言葉を使って人の心を動かす仕事だ。

独立して働き方の自由を手に入れてからは、生活から遠ざけていた本を純粋に心から楽しめるようになった。色を失っていた世界に光が射すように、一気に視界がクリアになる感覚があった。

苦手なことの方が圧倒的に多い私が、唯一続けてこれたこと。一番自分にしっくりする仕事が、アイデアを言葉で表現することだった。

“心だけは凝り固まることなく軽やかに、鳥瞰図的に世の中を眺めながら、魂のこもった言葉を紡ぐ人でありたい”

誰かの心に寄り添うような言葉を、一番喜ばれる形で届けることができたらと日々思う。




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