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いけばなの黒バック撮影をしはじめました。

背景の力でいけばなそのものが本来持っている以上に魅力的に見えることがあったらなんだかズルい、なんて気がしていました。

また、白い背景に陰影が生まれることで明かりの方向性が指し示されるならば、それは光に向かって植物が生長していくさまを残したいけばならしい姿そのもののような気もしていました。

しかしながら実の所、あかりの方向性は植物の陰影そのものに反映されます。なにより日頃、己が感じている植物の魅力、その刹那を切り取って残せるのは大概の場合、自分のほかありません。なればこそ、あらゆる手段を使って、最良の姿、顕になった生命力を写し出すことこそ、花をいける地続きの責任と改めて実感した次第です。

きっかけは昨晩見た一本のyoutube.
https://www.youtube.com/watch?v=o1AMJOM0RtI

KYOTOGRAPHIEにおいて、華道家の片桐功敦さんと写真評論家の清水穣さんが、中川幸夫さんのいけばなと写真との相関について話されています。

先人も花をいけることと同じくらい像を残すことに心砕いていたいたんですよね。知っていたし見ていたのだけれど、理解していなかった、ということに他なりません。お恥ずかしい。

何より、本来持っている魅力以上のものが写るもなにも、空間込みで体験するいけばなと、その後撮影する、という人為が追加される写真表現はまったくの別物。フォトグラファに撮影してもらうときにはそのつもりでいますし、日頃生徒にも伝えていること。なのに、どれもこれも自分で行おうと思うと、なんだか意固地で未熟な自分が、写真表現におけるいけばなの可能性を妨げていたということにもなります。

まだまだ学べることがあります。同時に限りもあります。
精進します、ご協力も仰ぎます。よろしくお願いいたします。

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ありがたくいただき、世界のどこかにタネを撒こうと思います。