花をいけることは、鏡台に向かうことにもにて。
久しぶりに大田市場にいってあれやこれと物色していると、花道家上野雄次さんが前からやってきた。彼との会話はとにかく面白い。はないけに対する真摯な姿勢と知識。聞けばいくらでも答えが返ってくるし、言葉に共感してもらうことも多い。
今日は床の間からいけばなが解放された(という表現は妥当じゃないけれど)際に、四方見の花に対する定義づけが甘かったんじゃないか、という疑問に対して知見をいただいた。そして床の間と正面性の話でしばし盛り上がり、6時半から始めた立ち話は気づけば8時になっていた。朝食でもご一緒すりゃよかった。
イタリアの会報誌のインタビューで「我々はいけばなを飾るための特別な空間”床の間”を持ち合わせていないが、どこに飾ればよいだろう?」という設問があった。「現代の居住空間においては、僕ら日本人でも床の間を持たない家に住む人は少なくないんだよ」という前段から自分なりの解釈で話を進めたものの、床に変わる空間てどこだろう、とひたすら悶々と。
いけばなが含む神聖、というものをどこまで残しておくのか、はたまた単にコンポジションとしての装飾に寄るのかでも扱いは変わるだろうし、「床の間に変わるスペースを作ってよ!」と建築家に請うにしても、では現代の住空間における床の定義って、華道家目線じゃどうなってるのよ、という答えを用意しておかねばならないだろう。
そして上野さんと床の話をしているあいだ僕は、ひたすら鏡台を思い続けていた。床に花をいけることと、鏡台に向かってみづからを整える化粧は、似て非なるものなれど、表裏のような気もしたから。この点、もう少し突き詰めていこう。
ありがたくいただき、世界のどこかにタネを撒こうと思います。