いけばながいのりのかたちなのだとしたら。
元来、"いのり"にかたちや様式はなく、求道者の解釈によって今ある姿に定型化されてきました。
これをいけばなに当てはめてみると。自然への畏敬の念をふわり植物をアンテナ代わりにたてることにはじまった(という側面がある)いけばなで、かたちや様式に重きを置くことに少なからずの疑問が湧いてくるはずでして。
マニュアル、は何かを達成するための手段であり、一定のクオリティを担保するための道しるべです。どちらかといえば、一定のクオリティに達していない人に向けたものとして存在しているように思います。同時に、一定のクオリティに達した人にしてみれば、マニュアルをこなしていれば及第点、とそれ以上を望まない人を一定数生みだす存在でもあります。残念ながら。
マニュアルに依存することは思考を停止することでもあります。
いけばなと西洋のアレンジメントの違いは日本の風土に根ざした自然観を元にした哲学の有無、その違いだと言われたります。哲学とは、思考に思考を重ねることのように捉えています。
花型は時の天才、名手が閃きをかたちに起こしたもの、記した道しるべです。天才、名手以外はみな、彼らのクオリティに達していない凡人です。この視点からすると、花型はマニュアルに近い存在です。
天才、名手がうみだした花型に依存すると、いけばなをいけばな足らしめる思考する行為から遠ざかる、ということは常に意識しておくべきだと思います。
花型を突き詰めて、その完成度を高めることを道とすること自体を否定しているわけではありません。ただ僕は、あらかじめ用意されたプラレールに電車を乗せて走らせる面白さから、いつしか数多あるパーツを気ままに組み合わせてコースをつくりたい、そのレールに電車を乗せて走らせたらもっとワクワクするだろう、と思うに至った人間だということです。
どれだけ自由に作ったつもりでも、タカラトミーが用意したプラレールのパーツを使っている事実には変わりなく、この点、大地が創造した植物を手に、かたちにするいけばなにも同じことが言える気がしています。
プラレール、やったことないですけど。
ありがたくいただき、世界のどこかにタネを撒こうと思います。