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The Hanged Man:吊られた男

このカードの存在そのものが興味深い。ひょっとすると、0番の「愚者」と並んで、もっともタロットをタロットたらしめているカードではないかと思う。

そもそも、彼は誰かによって吊られたのか、それとも、ある程度自分の意思で「吊られる状態」になったのか。吊られる状態に関心がいっても、なぜ彼は吊られたのかを考えると、読みに深みが増すのではないか。自分で自らこの状態になったとするのと、なんらかの事情でこの状態になったというのとは、天と地との差があると思われる。すなわち、解釈が大きく変わるのだ。

ここに「自由意志」という概念を持ち込んでみる。彼は、自分自身を試すために、あるいは自分を成長させるためにこの状態になったのだろうか。そうであれば、自分自身を追い込む、一種のトレーニングといってもいいかもしれない。私たちも、あえて自分を追い込むということをすることがある。勉強などの場では、当然自分を追い込んで、必死になって学ぶということをしないと身につかないことも多い。運動などのトレーニングの場面では言うまでもない。

このような、一見非科学的な手法が、ちょっとした進歩を生み出すこともある。それを示しているのが、頭の後ろにあるひらめきのような光だ。理詰めでやっているのではなく(それも大事だ)、何かをグッと前に、あるいは上にあげるようなものは、何かの導きがあったりする(それは、タロットカードかもしれない)。頭を空っぽにして、別のことをする。このように吊るされなくても、ずっと座っているだけではなく、立ち上がって散歩してみるのもいいだろう。私もある時、イスラエルの大学教授と面談をするとき「研究室をでて、散歩しながら話そう」と、大学の近くの公園に連れて行かれたことがある。普段のルーティーンから離れて、違うことをしてみることは、極めていいことであると思う。吊るされるまでしなくても、普段と違うルートで歩いてみる(道の反対側でもいいはずだ)ことも、何かのひらめきを生み出すきっかけになるのではないか。

なお、歩きながら会話をするというのは非常に脳には良いそうである。「哲学の道」というのが存在するのはそれだからかもしれない。

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