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清水企画「秘湯河童ノ淵停車場」を観てぼやく

先日、清水企画「秘湯河童ノ淵停車場」という演劇をシアターZOOで観てきた。たぶん、ZOOにくるのは久方ぶりな気がする。

この演劇は、どうやらテオレマ=定義に関するお話だったようだ。お芝居の冒頭、演者の方が頭に皿をのせる。すると、彼は河童になり、物語がスタートする。「河童」とは頭に皿をのせているという定義だ。

水面を挟んで、下を「水中」といい、上を「陸」という。それを定義するのが、人間か河童かによりメインフィールドは変わってしまう。立場により定義は変わる。つまり、ぼくらが当たり前とする定義=現実は、どこに足元を置くかということで大きく変わってしまうのだ。

では、「生と死」とは、どのように定義されていくのか。「死」のテオレマは、なんなのだろう。なんとなく、そんなお話だった気がするのだけれど、細かいことはよくわからない。

生と死の話は難しい。

生物学的にいうと、生死の境目は存在するのだろうし、最近は、量子力学の考えにおける「生と死」のテオレマがあると聞いた。どうやって観測するか?という、「観測すること」のテオレマによっても、生物の生き死には変わるらしい。

医学的にいうと、心臓が動かなくなったり、脳波が潰えてしまったり、というのは、なんとなくわかるのだけれど、きっと「存在」ということのテオレマを、死んだ後の世界まで拡張してしまうと、いろいろな考え方が出てくるのだろう。

水面を挟んで、上の世界と下の世界。

ただ、わかってることがあるとすれば、世界は、ぼくにみえている世界が全てではない。その下にある、ぼくが見えない仄暗い世界も存在するわけだ。たぶん、そういうことは、確かなんだと思う。

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