ユダヤ人の定義*デュシャン*ベケット

 ナチス・ドイツの傀儡政権であったヴィシー政府(フランス)は、国内のユダヤ人をシステマティックに抑圧するために、まず「ユダヤ人とは誰か」を——この国籍も、民族も、言語も、宗教さえも一様でないこの「人種」を——法的に定義しなければならなかった。結果、1940年10月に発表された「ユダヤ人の身分規定に関する法」では、
 ①ユダヤ人の祖父母3名以上を持つ者
  or
 ②ユダヤ人の祖父母2名およびユダヤ人の配偶者を持つ者
 が「ユダヤ人」であると定義された。祖父母や配偶者がどのような定義でユダヤ人とされるのかは誰にもわからなかった。
 

 
 マルセル・デュシャンが一個の男性用小便器を『泉』というタイトルで展示会に出そうとした時、問題となっていたのは「大量生産の既製品を芸術作品として出されたらどうする?」という挑発であるはずだった。ところが近年の研究で、『泉』はそもそもデュシャンが手がけたものではなく、ニューヨーク・ダダの怪物たるバロネス・エルザが彼に送ったものである(便器に書かれた “R. Mutt” というサインも彼女の手による)と考えられるようになった。だからデュシャンの挑発はより我々の神経を逆撫でするものでありうる——大量生産の既製品を芸術作品にするというアイディアさえ既成のものだったらどうする?
 

 
 サミュエル・ベケットは作家として世に出るにあたり、妻シュザンヌに多くを負っている。夫がなんのあてもなく書き溜めた原稿をカバンに入れ、あちこちの出版社を駆けずり回ったのは彼女だった。数十の出版社に断られたのち、シュザンヌは最後のあがきとして、当時巨大な負債を抱え倒産の危機にあったミニュイ社に原稿を持ち込んだ。それは同社の共同経営者兼編集長、ジェローム・ランドンの手に渡る。数年前、既に破綻しかけていた会社の経営陣に21歳で入り、今や終わらせ方を考える時期にあった若きランドンは、その原稿、『モロイ』という題の小説を手に取って、地下鉄の電車の中で読み始めた。彼は爆笑してしまった。原稿を落としてしまうと大変だから(それはホッチキスでも紐でも束ねられていない、一枚ずつバラバラのタイプ原稿だった)、彼は読むのを止めて、原稿を背もたれと背中の間に挟んだ。そして人がじろじろと見ているのを知りながらも、狂ったように笑い続けた。彼は事務所に戻って、その日のうちに原稿を読み終わり、シュザンヌに手紙を書いた。「結構です。引き受けましょう。決まりです」[1]。そして会社側にはこう伝えた。「私はこの会社を閉じる前に、ベケットを出す」。
 『モロイ』はすぐに1500部ほど売れた。それは会社を倒産から救うには程遠かったが、もう少しだけ続けてみようかと思わせる程度の励ましにはなった。結果、ミニュイ社は数年後に訪れるアラン・ロブ=グリエの登場と、彼にプロモーションされた「ヌーヴォー・ロマン」(「新しい小説」)のブームまで持ち堪え、その黄金の時代を迎えることになる。



[1] ジェイムズ・ノウルソン、『ベケット伝』、上巻、高橋康也ほか訳、白水社、p. 449-450参照。


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