あの時、死ななくて良かったと思う「瞬間」の話
先日、クライアント様とのやり取りの中で、
「あ、私、あの時死ななくて良かった」
と、思う瞬間があった。
時々、その瞬間が訪れる。
「わたもりさんがいてくれて良かった」
と、言われることは、
大変恐縮で、
とても多いのだけれど、
そういう時には何故か、そうは思わない。
それが、私の仕事で、
もっと言えば、役割で、
その時、その悩みや苦しみを受け止め、
前に進めるよう背を押す、
あるいは手助けする役目と言う、
見えない世界の筋書きの中に、
私がいて当たり前だと思っているからかもしれない。
もうずっと前から、決まっていた事、のような感じ。
この人は、私でなければだめ、というような。
それとはちょっと、違う。
その時、その人の言葉を受け止める先である、
「存在」としての私が、
今、この瞬間にいて良かった。
そんな感覚。
役に立つとか、そんなのはどうでもよくて。
役に立つという事で、
他者におんぶに抱っこをして、
自分の存在感を確かめる趣味は私にはないし、
役に立ったかどうかなんて、
もっと長期的な視点で見なければ判らないことだと思うから。
そうじゃなくて、
ただ、この瞬間に私がいて良かった。
あの時、死ななくて良かった。
そう思う時の事。
例えば、
暑い夜中に、はだけて眠る人のお腹にタオルケットをかける自分がいて良かった。
誰かの笑顔を受け止める自分がいて良かった。
通りすがりの誰かとあいさつを交す自分がいて良かった。
今日、この料理を作って、
美味しいねって笑顔で言い合える自分がいて良かった。
その延長線上に、
深い悲しみを、孤独を、不安を、迷いを、
ただ、受けとめる自分がいて良かったと思う瞬間がある。
多分、その瞬間のその人は、
私じゃないと受け止められなかったから。
誰かが投げたボールを受け止める自分がいる。
そんな感じ。
それが役に立つかどうかなんて、関係ない瞬間。
そう、ただ、
自分が「存在」すること自体を、
良かったと認められる瞬間の事。
ただ、いる。
ただ、在る。
それだけが重要。
だから、持っている能力や、役割なんて関係なく、
ただ、「その人」のその瞬間に立ち会えたことが良かったという事。
それは、私の場合、
たぶん、限りなく、
「死」に近い場所にいたからこそ。
「死」とは「個体・身体」の「無」に過ぎないけれど、
その「個体・身体」の重要性を、
とても強く感じる瞬間なのかもしれない。
だから、役に立たなくて、
ダメダメでも、
お金を稼げなくても、
迷惑かけても、
その瞬間の「誰か」にとっては、
私は、
そして、あなたは、
そこにいていい存在なのだと思う。
・・・・かつての、
「私には生きる資格がない」
と毎日考えていた私に、
時をさかのぼり、
この言葉を伝えたい。
私は、そこにいていいんだよ。
沢山失敗して、
迷惑かけて、
ダメダメで、
全くいいお母さんでも、
いい妻でも、
良い娘でもなかったけれど、
それでも、
私は、
そして、あなたは、
そこにいていいんだよ。
この言葉を、今、書ける、
この瞬間の私がいて良かった。
この文章を、
今、読んでくれる、
あなたがそこにいて良かった。
この言葉を受け止めてくれる、
あなたがそこにいて良かった。
だから、ありがとう。
そこにいてくれて、ありがとう。
あの時、死なないでいてくれた私、ありがとう。
今、身体を持って、そこにいる、あなたに、ありがとう。
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