つまらない日記。

これを読んでもあなたの得になるようなことは何もありません。発信するに値することは何も書いていないのです。だから読んでから怒らないでよね。

日記を書きます。

えー、まず朝。昨日の夜から繋いだままの恋人くんとの電話におはようといってらっしゃいを告げて、9時前くらいまでお布団で生きていました。

朝ごはんはこちら。

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なんかね、お土産に貰った洋風のどら焼き。シナモンやナツメグのスパイスの香りがして、あんことともに無花果が入ってる。洒落ています。

そしてふとんを干す。晴れた休日に家にいることが少なかったから、ようやく干せて喜び。

そんでもって、去年はインフルエンザにかかってしまったのでワクチン接種に行こうと近くの病院に電話したら「無いんです」と断られ、仕事帰りに寄れそうな内科へ予約の電話を入れました。こちらはあった。よかった。

職場で電話対応はたくさんしているけど、プライベートな予約の電話とか、未だに緊張します。毎回小さく意を決して緑色の発信ボタンに手をかける。

その後お化粧をして、お買い物に出かけました。

まずまずの出費を感じるので買いたくはないけど買わなくてはならないものを買う日。

仕事用のジャケットやカーディガン、インナーにするTシャツ、化粧下地、壊れてしまったドライヤーの代わり。

あ、でもカジュアルなワンピースも買ったな。これは買わなくてもいいけどほしくて買ったもの。着るのが楽しみです。

あと本を買いました。

最近読書と仲良くできないのが悩みで、本屋さんに並ぶどの本も、自分に「さぁわたしを読みなさい」と語りかけてくれないので、迷子になっていました。

しかし今日こそは、自分で選んだ自分の読みたい本を手に入れてみせる!!と意気込んで、ちょっと粘ってみましたところ、ございました。わたしの、読んでみたいと思える本。

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こちら。川上未映子さん。芥川賞作家だそうです。疎いので…知らない人だ…。

なぜ手に取ったって、表紙がいいですね。この青とも緑とも言える色。何だかんだ装丁を重視してしまいます。そばに置いておきたい本を選ぶわけですから、大事なのです。

表紙って、中の文章、作家の仕事に対する、装丁の仕事をする人の、1つの解釈や見せ方でしょう?この本の雰囲気ってこうですよ、この本はこんな風に気高いとか、こんな風に親しみやすいとか。読者にどういう本かを伝える入り口のために、予算のかぎりで愛を尽くしていると信じているわけです。

わたしの場合は、デザイナーだか編集者だかとの対話が、読みたい本を見つける手立てですね。

この本は、タイトルにも惹かれましたよ。すべて、と言っているからには自分にも、わたし達恋人にも当てはまる何かがあるかしら、とか。真夜中という言葉にも大変そそられます。真夜中っていいでしょ。何がいいかを書くのはとても試されている感じがありますね。だってみんな良いと思ってそうだもの。あとはその人の真夜中次第。ま、書かないんですけどね。

50ページほど読んでみたけどいい感じです。わたしに言葉が馴染む。漢字に変換できる文字をあえてひらがなにしておくことを何と言うのかしら。ふーん「漢字を『開く』」と言うそうです。

わたしが文章を書くときに、わたしはわたしなりに開くか閉じるかを気にするほうです。できるだけ「私」は「わたし」と書く、とかね。完璧に統一するほどの美意識はないのですが、まるく、柔らかな言葉になるよう、意識はしています。

この本の文章とは、その開き具合がなんとなく似ているようで、すんなり言葉が溶けるように入ってくるのかもしれません。

あと主人公の、適度に社会に馴染めないでいる陰鬱さに自分を重ねられてしまうことが悔しくも悲しくもあり…。

本の続きは、今度夜勤明けの恋人くんと会う日に持って行こうと思っています。すやすやと眠る恋人のそばで、わたしも眠ってしまえばいいものの、眠れずにいるのは手持ち無沙汰で。もそもぞ邪魔しないようにね。寝かせてあげたいのですよ。

本のおはなしはこれくらいかな。

あとはそうね。過去の出来事としての嫌な場面ってたまにフラッシュバックしてうわぁ…ってなることがありませんか。あれがちょっと多かった日かな。

だけど総じて素敵な日でした。目覚めもよかったし、風は強かったけど、空の美しい日だった。

どういう方向の自己中なの?と思われるかもしれないけれど、たまに、世界がわたしのためにあるような日がある。もちろんそんな訳はないんだけれど、そんな風に錯覚することが許されるように、美しく映る日。

今日はそんな日だった。部屋の中に入り込む陽の光がそうだったし、窓からちょうど淡く白い月がのぞいた。

ひとりを楽しめる日だったな。でも孤独ではなかった。昨日、恋人くんと聴いたMr.Childrenを聴いたりして、昨日見た月を思ったりもしました。

そう、昨日は恋人に会って、彼の胸に抱かれながら泣いてしまったのだけれど。きゅっと小さくなって、包まれていると、こみあげるものが溢れ出てしまった、という涙だった。

昨日の、なんだか自己嫌悪に陥っている恋人くんの様子に当てられたこころの動きだったというのもあるけれど、それ以上の何かがあったと思う。

今日、そのことを考えて、なんとなく思いあたる節を見つけた。

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これは、大学の卒業制作で描いた作品の中のひとつ。そして、

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これは去年、終わった恋のことを描いた作品の中の一枚。

この二枚は、愛のことを描いてあって、一枚目は自分を愛してあげたいという愛、二枚目は、自分は愛されてよい人間なのだと教えてもらった愛。

うーん。何か違う気もするけれど、そんな感じ。

何はともあれ、包み込まれるように、体温を分け合うように、こうして抱き込まれるときに、言いようのない愛に触れている気持ちになる。なった、ということなのかもしれない。

愛って、あたたかいだけじゃないのかもしれないな。自分ではどうしようもない、びっくりするほどのわたしの居場所を教えてくれるのに、ほんの小さな不安の手に、心臓をきゅっと掴まれる。

それは相手がそうさせるんじゃなくて、自分の中にあるものが顔を出しているに過ぎないのですが。

とにかく、こころの柔らかいところが、言葉よりも先に反応したんだと思う。

ちょっと恋人の前で泣きすぎなのは反省しているけれど、恋人の前で泣けることはわたしにとっては価値というか意味がある。だからちょっとだけ許してね。

うん、そうだな。あたたかくて、ちくっとする涙だった。ということに思い当たりました。

段々、この日記の向かう先がどこなのかわからなくなってきている…えー、つまり。愛がそばにあるいちにちだったな。

こんな落とし方ではだめ…?読んでも得はないって言ったじゃない?ほらね。「そう言って実はあるんでしょう〜フリなんでしょ〜?」とか思ってここまで読んだそこのあなた。わたしは正直者なんですよ。ふふふ。

わたしは今夜、お日さまの匂いのするおふとんに包まれて眠ります。

あなたはどんな夢を見ますか。

おしまい。


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