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近況報告。

1ヶ月ほど前に、ツイッターで自分の名前(@watako373)とは別のアカウントを作った。
ネット上に自分の名前から切り離されたアイデンティティが突然生まれた。誰にも承認されない代わりに、好きなことを呟ける。よくある「RTで抽選に参加」みたいな懸賞や、完全に個人用のメモや、誰にも求められていない連続ツイートが気軽にできる。
なんて自由な世界。

実名の自分とリンクしたアカウントだと、スキなものは言えても嫌いなものはなかなか言えない。自分の評価に関わるかもしれないから。みんなが嫌いなものを嫌いというのは楽だけど。1限とか。

ネット上に吐露したい本音というのは、大抵嫌いの部類に入る気がする。スキは自己満足で終わらせることもできるし、現実でも言いやすい。でも嫌いはもしかしたら誰かを傷つけるかもしれないし、かといってそういうネガティブなものを永遠に仕舞い込んでいると、いつの日かJOKERになってしまう。あ、「JOKER」は本当に良い映画だったので見てね。


嫌いなものを嫌いというのは、表現の自由だ。でもいわゆる「良い人」は、そんなネガティブなことを滅多に口に出さない。口論の火種になるようなことは自分から言わない。

それは自分の面目を保つためなのか?それとも、本当に頭にすら浮かばないのか?自分は「良い人」ではないので分からない。

でも「良い人」であろうとすればするほど、他人を配慮すればするほど、人は嘘つきになる。
旧来の友人から「久々に飲もうよ笑」と誘われても、「君とは飲みたくありません」とは答えず「行きたいんだけど、あいにくバイトなんだよね〜笑」と答える。
「俺って本当クズなんだよな…」と自虐する友人がいても「うん、そうだね」とは答えず「そんなことないよ〜泣」と答える。
ほとんど思い入れのない先輩への寄せ書きに「ずっと憧れでした!」と書く。

この論理で言ったら、まっとうな世間付き合いをしている99%の人は嘘つきだ。みんな善人の皮を被った悪人だ。


まあ、「だから何だ」という話ではある。

でも自分は、こうしたジレンマ、すなわち「自分の本音を貫くことが他人を不幸にするという構造」の中でどうバランスをとって生きていくか。それをもがきながら考え続けていくことが、本当の意味で良い人(なんとなく、道徳的、倫理的な人みたいな意味)であるために必要な過程なのではないかと思う。それは『罪と罰』のラスコーリニコフのように。あるいは、『こころ』の「先生」のように。

自分なりにそれを考えた結果、別アカウントの作成に至った。表で嘘をつきながら、別のところで本音と向き合う。誰も傷つかない、平和な世界だ。






ここまで読んでくださりありがとうございました。