3年周期と原点回帰


4月になった。大それた理由がなくとも何かをはじめることが相応しいと思わせてくれるそんな時分に、僕は30歳の誕生日を迎えて数日が経ち、"これから"を考える前に改めて今自分がどこに立っているのかを考えていた。

この"どこ"は当然場所の話ではなく、もっと抽象的な位置の話である。

今僕の人生を占めるのは音楽活動で、それは奇跡的な確率でここ10年以上変わっていない。ただその音楽活動という枠組の中身は目まぐるしく変化を遂げてきた。

音楽の授業が大嫌いで楽器も何も弾けない少年が友人のWALKMANから流れる音楽に衝撃を受けて夜な夜な風呂場で歌を歌うようになり、ある日読んだweb小説のあとがきの"これはとあるバンドの楽曲を元にして書いた物語です"という文言から導かれるようにしてロックバンドと出逢った。

それから軽音学部のある高校を探し、無事に入学。入学が決まってからその高校(千葉県立佐倉高等学校)が"とあるバンド"の出身校であると知った。

念願の軽音学部でバンドを結成し、1年生の時に組んだコピーバンドでライブハウスと出逢った(志津SoundStream/現在のSoundStreamsakura)。2年生になる直前に同級生を誘って新しいバンドを結成した。

結成してすぐに"自分の曲をつくりたい"と思い立ち、右も左も分からないまま弾けるコードだけを駆使してはじめてのオリジナルソングをつくった。街の片隅に咲いた一輪の花の歌だった。

誰かの歌ではなく、自分達だけの歌をつくりあげたその瞬間から本当の意味での自分自身の音楽人生がはじまったように思う。

当時のメンバーとは"この先も働きながら趣味としてこのバンドを続けていけたらいいね"といつも話をしていた。

ところが高校三年生になっても僕は音楽を手放すことができず、勉学を放棄してロックバンドにのめり込んだ。音楽の専門学校に進学し、学校、バイト、バンドの日々。そのうち学校も休みがちになりライブハウス、スタジオ、バイト先、自宅だけが僕の生息空間になった。

ある日、ライブハウスの先輩バンドから"東京のライブハウスで企画を打つからオープニングアクトで出演しないか"という話をもらった。高校生の頃に当時のメンバーとライブを見て"こんなバンドになろう"と話した憧れのバンドからのオファーだった。

今にして思うのは、このオファーこそが現在も続く僕の音楽との暮らし、音楽での暮らしのその根幹の出来事だった。

東京のライブハウスに出るということは千葉の片田舎で生きる僕らにとって世界に向けて羽ばたく第一歩のような大きな出来事で、ならば決意新たに挑もうと思い立ち、バンド名を改名することにした。新しく僕らはHalo at 四畳半と呼ばれるようになった。

はじめて東京のライブハウスのステージに立った。電車を乗り継いで辿り着いた渋谷は想像通りの街で居心地が悪かった。ライブのあとに出演した渋谷O-Crestの店長と話をした。大層気に入って頂けたようで次の出演が決まった。

それから何度もO-Crestのステージに立ち、店長の勧めで大先輩であるグッドモーニングアメリカのコンピレーションアルバムに参加することが決まり、初めての全国流通を果たした。これがキッカケでメンバー全員が足並みを揃えて"音楽で生きていくこと"を決意した。

次第に店長とも親しくなり、最終的に店長は僕らのチーフマネージャーになった。遂に"事務所(シブヤテレビジョン)"というものに所属することが決まり、さらに"レーベル(SPACE SHOWER MUSIC)"への所属も決まった。

座組が決まったところで、いよいよ自分達の新たな音源をつくることになった。今も制作活動を共にするプロデューサーともこのタイミングで知り合い、正真正銘自分達のアルバムとして全国流通盤(APOGEE)をリリースした。

そこから3年間ライブハウスからライブハウスへ、全国様々な土地でライブをし、新曲をつくり、CDをリリースし、はじめてのお給料をもらい、バイトを辞め、2017年に音楽で飯が食べられるようになった。そして遂にその年の秋頃に日本コロムビアからお声がかかりメジャーデビューが決まった。

翌年2018年10月17日にメジャーデビュー。音楽嫌いの少年が約10年後、寝ても覚めても音楽に囲まれた生活をしていた。

前身バンド結成から3年で改名、東京進出を果たし、そこから3年でインディーズデビュー、さらに3年後にメジャーデビュー。3年周期で転換点を迎えてきた僕らはそこから3年後の2021年に活動を休止した。

これに関しては以前の記事に全貌が書いてあるので内容には触れない。

休止後、同年2021年9月にソロプロジェクトVarrentiaを発足。そして現在に至る。

これはもう呪いなのだと何度も思った。音楽を辞められないことも、その音楽を続ける上で余りにも輝いている過去が存在していることも。

ただ、それは言い訳に過ぎなかったことも今はもう分かっている。音楽を辞められないなんてことはない。いつだって辞められる。それを辞めないのは僕が続けたいと思っているからでしかない。そもそも辞める理由の方が見つからない。

過去に足を取られることもない。ここにいるのは今を生きる自分で、それ以外の自分はいないし、ましてや足に手をかけるなんてオカルトじみたこともありえない。ただ、過去が残していったものがあるとすればそれは今そばにいてくれる人達で、ここまで読んでくれるような君で、どんな曲をかこうかと思い悩みながらギターを抱えている今日だ。

だからそれを"呪い"なんて心の中でも呼ぶことはもうやめた。そこに見えていたのは魔女でもなければそもそも敵対するものでもなく、必死に生きていた自分だ。先のことなんて考える暇もなく、音楽に心血を注いで心と身体と頭を使って必死に生きていた自分だ。

そいつがずっとこっちに伸ばしている手は足を掴む為じゃなく、ボロボロのバトンを渡そうとしている手だった。その光を放ち続けるバトンも、手入れしてやらなければ埃が積もってどんどん霞んでいく。だから今の僕はそのバトンを毎日握り締めなきゃいけない。毎日新しい自分にバトンを繋いで未来まで運ばなくちゃすべての意味がなくなってしまうから。

だからそれを人に見せびらかしているだけじゃダメだってことにようやく気が付いた。今僕が持っているバトンは過去の僕が繋いできたバトンで間違いないが、ある時を境に3年ごとに手渡されてきたバトンで、今の僕は2021年に走り出した初心者なんだとやっと認められた。

だからまた新しいスタート地点から一歩一歩前に足を踏み出していかなきゃいつまで経っても次の自分に辿り着けない。ジンクスで言えば2024年に次のバトンタッチがあるらしい。ただ、これは自分の中だけで言うべきであって公に書くべきではないのだけど、勘違いしてはいけないのは"3年後"にバトンを渡すことなんてどうでもいいということ。大切なのは"バトンを渡す"の部分だから。

だから2023年に渡したって、2025年に渡したって、勿論2024年に渡したっていい。いつであろうと変わらないのは走り続ける自分でいること。

こんなところまでうだうだと書いた文章を読んでくれている人が何人いるか分からないけど、今僕は至極当然のことを30年間の振り返りの結論としようとしている。でも今の僕にはこれが必要だった。付き合ってくれてありがとう。僕が僕であるために、君のそばにいるために、待ちぼうけはもう辞める。必死こいて駆けずり回って、酸いも甘いも音楽にして生きていく。

百年足らずの退屈をギター掻き鳴らして追い払っていくので、耳鳴りがしようともそばにいてください。それすら掻き消すように歌いますので。


2023年4月2日 渡井翔汰

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