さらば、青春の光

今日は真面目。
サッカーの試合の準備をした朝、祖父から電話。
話を聞くと「病院に連れて行って欲しい」

ボール当番なので会場にボールを渡し試合には出ず祖父の家へ。
結果は様子を見るとのこと。
そして、松の木の剪定をして欲しいと言われて松の木を剪定。雨が降り中断。

祖父を気にして埼玉から木曜から世話していた叔母を駅前に送る。
雨の日。

帰ると退院後ずっと体調の悪い父。
買ってきて欲しいものを紙で渡され買い出しに行き帰宅。

なんだろう、やっぱり時間が取れない。
意味がわかるけどわからん。
え、明日はもう仕事?

そんな自分にささやかな期待は多分作っている音源とIngramに込めた思い。

Ingram、よくバカにされるがこの名前のおかげで自分の変な気の回し方に対して「でも君が趣味的にやりたいんだろう?そういうやつだろう?」というきついお守りになる。
だからものはいいようで何がどうであっても自分のものであるっていう感覚になれる。
いや、今までは違うんかって言われたらそうでもないけど、どこか自分は昔から考え込んでしまう癖がある。

根本と生活上ある程度常識的にいなくてはならない、何かおかしいことをしたらいけないみたいな強迫観念がずっとある、のやもしれない。
本当はそもそも考えないで感じるまま動くのが一番冴えていて答えだったり正解に結びつくタイプなんだけど、いつからかそれが曇っている気がする。

それをたまにスコーンと後ろから引っ叩いてハッとするのがIngram。みたいな。

きっと世の中ってこうあるべきがそれぞれに100人いたら百通りあると思う。
でもそれを突っぱねられる人と、ちょっと意にそぐわないけど受け入れている人の割合とどれくらいの濃度かってのがグラデーションになっているのだと思う。
だから、よくわからないけどまとまったように見える世の中の雰囲気がマス的な感じで一瞬この世を覆う。でも、本当のところ誰もその一個の現象に魔に受けてるかと言えば、こうあるべきの一人の声がすごくデカくてそんなふうに見えているだけで。

でも厄介なのがテレビだったら画面越しに何言ってんだこいつって言って済むけど、きっと身近だったらそうはいかないと思う。

無論こんな話する自分は当然世の中に出ると受容的になってしまう。
世間話には全く気を使わなくても、大事なことを決めたりする時ちょっと身構えてしまう。
感情が乗ってない時は割と話を聞いてみてそれもありかも、なんて思う時もある。

でも実際はかなり神経質なのでちょっとでも違うことを受け入れてストンとはいっていない。

つまり結果はそれだからこそ、スタートから理解しようと考えることが意味がない、多分それは変わらない。
そうやって永遠に分かり合えない何かを繰り返しながら自分の深いところの正解をずーっとみてる感じ。

他の人の脳みそをのぞいてみたい。
なんでみんなはこうなんの違和感もなくずっと手を取り合う、というかああいう感じで楽しくやり続けられるのか。

自分は10代で病気したあたりから、周りに人がいるのにずっと孤独?のような感覚を味わっている。
紛れても、ふとした瞬間にあ、やっぱり一人なんだなって思う。

誰の言葉もだんだんこう響かなくなりつつあるからこそ、それはさもしいこととは思わず、じゃあ自分に響く自分の中でやってきたなりの何かで、残り半年形にしたい。

自分の心の微妙なものはこれまでも残り続けてはいるけれど、それはどこかで去るまで、そのまま生きていければそれでいい。

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