見出し画像

#49 Mくんちのお母さん

もう50年近く前、私が小学校の低学年だったころ、私はM君という同級生の家へよく遊びに行った。

M君は私の事をそれ程気に入ってはいないみたいだったが、私は学校から帰ると、よくM君の家に行った記憶が鮮明に残っている。だけどだいたいM君は留守にしていた。今思えば私を避けていたのかもしれない。

でもそんなことはお構いなしに、M君の家に行っていた。

本当の目的は、M君のお母さんに会いたかったのと、お母さんがくれる小っちゃなヤクルトと同じような「乳酸菌飲料」だった。

当時も毎日宅配する乳酸菌飲料のシステムは既にあり、多くの家が牛乳や乳酸菌飲料の宅配サービスを利用していた。

M君の家では、毎日2本ずつこの「乳酸菌飲料」の宅配を受けており、1本はM君のためであり、もう1本はお母さんの分であった。M君のお母さんは私がM君の家に遊びに行くと、M君がいなくても必ず家にあがらせてくれて「そのうち返って来るから、これでも飲んで待っててね!」とその「乳酸菌飲料」を必ずと言っていいほど私にくれた。そして私の話の話し相手になってくれた。

私の家は両親共働きで忙しく、学校から帰っても家に誰もおらず「おやつ」なども用意されてない家だった。

M君の家も裕福ではなさそうだったが、いつもお母さんが家に居た。それが私にはとても羨ましかった。M君のお母さんは、声がハスキーでボーイッシュな人だったが本当に優しかった。

私はMくんちの子供になりたいと真剣に思った記憶がある。


ある時この話を私の母親に、何気なく話したら「そんな厚かましい事をするのでは無い、二度と友達の留守に家に上がり込むな」とものすごい剣幕で叱られてしまった。

たぶんその後も何度かは、内緒でM君のお宅へお邪魔していたと思うが、いつの間にか自然に足が向かなくなった。きっとどんなに頑張ってもMくんちの子供にはなられない事を悟ったのだと思う。


それから30年以上たって私はめったに行かない同窓会に行った時、M君に会ってこの話をした。するとM君は自分の家に私がちょくちょくお邪魔していたことなど全く覚えていなかったが、お母さんはM君が10代の時に無くなってしまった事、そして私達が小学生低学年の頃から、M君のお母さんは病弱だったので、いつも家に居たのだと教えてくれた。

それを聞いて、あんな良いお母さんが早くに亡くなってしまって、M君は辛い思いをしただろうなと、少し涙が滲んだ。


私は自分の母親が亡くなった経験をまだしてはいない。

おやつどころか、仕事にかまけて学校の弁当すらまともに作らなかった、ネグレクトと言う言葉が一般的ではない時から、ネグレクト気味だった私の母親だが、80歳過ぎてた今も元気らしい。(姉から聞き及ぶのみだが)

「人にやさしいと、長生きできないのかな~?」と ふっと思った。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?