レイトショーはお早めに

Times:Midnight
 小山内硝子の好きなものの話


 レイトショー。なんて、心が甘くなる響きだろう。
 仕事が終わってから向かう夜の映画館は、たとえ誰かと待ち合わせをしていなくても恋人との約束に急いで向かうような満ち足りた甘さがある。お風呂に入っておいて、帰ったらすぐ眠れるように準備してから、夜の海のような街をのんびり歩いていくのだ。人混みが苦手な私にとっては観に来る人が少ないのも有り難いし、気持ち安価に映画が見られるのでドリンクだって少し贅沢できるのもいい。映画が終わったあとはもう寝るだけなので夢見心地でお布団に潜り込んで、気に入ったシーンを頭の中で何度も再生し直す。あれはどういう意味だったのかしら、構成はここと後からのシーンがリンクしていて身震いするものがあったな、なんて夢想しているうちに眠ってしまうまでが私のレイトショーだった。
「そんで、映画観に行くって?」
 じゅごごご、と氷の間からコーヒーを吸い上げながら、彼女、時雨秋人は不機嫌そうにこちらをチラリと覗き見るのだった。それから小さく、ふうん、行ってくれば、と寂しげな声色で付け足される。
 なにも、一人でとは言っていない。最近知り合ったけれど最早家にいるのが当たり前のようになってきた秋人の方を見遣る。いつもするりと家に入り込んでくるのに、突然自信をなくしたみたいにそんなことを言うから拍子抜けしてしまった。あなたも一緒にどうかと誘うつもりだったのだが、彼女はぬばたまの黒い髪を掻き上げて不貞腐れたようにカリカリと頭皮を掻いていた。結構、お誘いする流れだったと思うのだけれど、どうもそんな印象は与えられなかったらしい。
 秋人はコンビニで買ってきたアイスコーヒーのストローをあむあむと噛んで、尖らせた唇をストローから名残惜しそうに離した。このコーヒーはいつも秋人が私の家に来る前に買ってきてくれる。私にも差し出されるのでお金は払うと言っているのだが、勝手に押しかけてる迷惑料だと言って受け取ってくれたことがない。ワガママなのに誠実で、困った年下の娘だ。かなりの甘いもの好きな彼女は、ガムシロップを私の分も含めて三つ入れていたので味は違う。そしてその甘いコーヒーと似た色の、優しい黒の瞳がもう一度私の方に視線を向けるので、私も視線と質問を投げ返した。
「秋人も、一緒に来ない?」
 個人的に、洋画は字幕派だ。秋人は英語も堪能だったし、なんとなく趣味も合う気がする。一緒に来てくれるんじゃないかという期待で誘ってはみたものの、どうだろう。ちなみにこれが観たいの、と映画のパンフレットをテーブルの上に出して彼女に見せ、反応を伺った。
 しばらく前に話題になった映画。時折ではあるが、その人気故にリバイバルを果たすときがある。もうブルーレイディスクも出ているし、最近テレビでも放映されたらしいのだけれど、今週の夜だけ上映するらしい。やはり、こういうものは映画館で観たいものだ。しかもレイトショー。実は、以前の放映時期には抱えていた仕事が落ち着かなくて観に行けなかったタイトルなのだけど、レンタルしてきて家で観るのもつまらないなと感じて観ずじまいだったのだ。
 へぇ、とか、いいんじゃない?と少しずつ気のある素振りを見せ始めた彼女はパンフレットの両面を一通りよく読み、氷が溶けてもう水かコーヒーか分からない液体を噛み痕だらけのストローで啜りながらこう言った。
「アタシ、字幕派だけどいい?」
 自分でも、口元がくっきりと微笑んだのが分かった。思った通りだ。私もそうなのと返すと、秋人は小さい子供がするような、いつものにへらとした顔で可愛く笑って承諾の返事をくれた。


「自分の分くらい、アタシが出すよ。なんなら硝子サンの分だって、」
「いいのよ、少しは年上に奢らせてね」
 はいこれ、と半ば強制的に座席の書いてあるチケットと彼女好みのダブルチョコのショコリキサーを握らせてスクリーンへ向かった。サングラスをかけているから瞳が見えづらいものの、秋人は若干戸惑っているようだった。
「……あー、これ美味い。硝子サンも飲んでみ?」
「ん、あら。おいしい。こちらもどうぞ」
「ストロベリーやっぱ美味いな! 」
 別のものにしてよかった。飲み比べができて楽しい。
「いやほんと悪いね、奢らせちゃって」
 いいのよ、と自分のショコリキサーのストローをもう一度彼女の口に咥えさせて反論を塞いだ。いつもコーヒーを奢らせているのだからこれくらいはさせてくれないと釣り合いが取れない。まるで公平でないのだ。公平でないのは、好きではない。なんとか彼女を言い包め、色は違うがお揃いのショコリキサーを携えて湯上がりの髪を揺らしながら歩く。なんだかいつもより浮足立って、口の中が甘いような気がした。6番スクリーン、少し手狭だが画面が見やすいとてもいい部屋だ。ちょうどいい席も取れたし、と上機嫌。
「硝子サン、楽しそうだね」
 どことなく嬉しそうな声が少し上から降ってくる。ハイヒールを履いた彼女は、ただでさえ私より背が高いのにもっとずっと高くなってしまう。そのため、私は彼女を見上げるようにして言葉を返した。
「ええ、とても」
 お風呂に入って暖まっているせいか、リラックスしているのか。随分と分かりやすく、上機嫌な声で答えてしまった。
「……硝子サン、映画は一人で観る派だと思ってた」
 秋人がぽそっと、不安を口にするように呟いたので呆気にとられる。だから、さっき誘われてないと思ったんだ、と。
「え」
「なに?」
 言われてみれば、本当は、秋人の言う通りなのだ。いつもは、一人で観る。結婚していたときも映画だけは基本的に一人で観に行っていた。離婚してからは尚更一人だったし。
「じゃあ、なんで今日は違うの」
「…………ええ、と、」
 何故だろう。自分でもよく分からなくて不思議に思う。そもそも一人で観ていた理由ってなんだったっけ。ああ、そう。上映中に話しかけられたり、観終わった後にふわふわとした余韻に浸れなくて好きでなかったのだ。それは家族でさえ例外なく。まして結婚していた彼は、字幕の訳がどうとか、あの俳優がどうだとか、批評家みたいなことを始めてしまうので尚の事一人で観るようになっていったのだ。
 では何故、今日は秋人を誘った? 自問自答の答えが返ってこない。不思議そうに私の見る秋人の顔を見返して、私も首を傾げた。
 でも、ふと。こう思ったことは確かだった。
「秋人と一緒なら、楽しそうだったから」
 口に出してみると、自分でも腑に落ちる答えだった。秋人と一緒なら楽しいかも、と。その一点のみを無意識に判断材料に入れたのだ。簡単に他人を否定したり、こうあるべきだと決めつけたりする思考性が、彼女にはない。むしろ美点の方をよく見つけ出して、素直に感嘆する心がある。秋人のそういうところが、とても、とても好ましい。彼女がワンちゃんだったなら、顔をもふもふとひとしきり撫でていい子いい子してしまいたくなるくらいだ。でも秋人は人間で、メイクもばっちりしているので化粧を崩すわけにもいかない。秋人がワンちゃんじゃなくて残念だ。
「突然犬であることを求められた」
「いい子いい子できないじゃない」
「してくれてもいいのに?」
 ほい、と戯けながら頭をちょこんと下げてくれたので、よしよしと滑らかな髪を撫でてみた。艷やかで綺麗な髪なので指通りがとてもいい。やはり人はちゃんと褒めておくべきだ。その心根はいつも綺麗で素敵なものなのだと評価する。
「……あー、……ほら。開場したから。早く座ろ」
 どうも、気恥ずかしかったらしい。
 撫でていた手を握られてゲートへ向かう。暗い階段を降りていくと、館内はほぼ貸し切りのような人の少なさだった。席を見つけて腰掛けた秋人に引き摺られるようにして私も座る。席につく人もほとんどいないようで、このままでは本当に貸し切りだ。結構人気だったと思うのだけど、この映画。
「貸し切りっぽいね、これ」
 彼女はショコリキサーのストローを咥えながら、サングラスを外してこちらを覗き込んだ。
「いいね、大画面で映画。贅沢だ」
 一応館内だからか、とても小さな声で囁くように笑ってくれる。硝子サンのそれもう一口くれる?と言うので言われるがままに差し出した。
「美味い。はい、硝子サンもあげる」
 差し出された冷たいダブルチョコを吸い込む。とても、とてもあまいなと思った。そして、言われるがままにもしているが、さるがままにもなっていたようだ。いつの間にか、空いていた手が握られていた。映画を観るだけ。まあ、手を使う必要はあまりないので、離してというのも違う気がするし、秋人の手は暖かいのでこのままの方がちょうどいい気もする。彼女、無意識でこうなんだろうか。隙あらばボディタッチが多いタイプなのでこの方が落ち着くだけかもしれない。
「硝子サン」
「なに?」
「楽しみだねぇ」
 幸せそうに、優しい黒の瞳がへにょりと笑う。映画館特有のオレンジ色の照明を受けた秋人の瞳は、面白いことにその手にされたチョコレートのショコリキサーと同じ色をしている。そのままきゅっと握り直された手に何故だが胸が詰まってなんにも言えなくて、私もただ、そうね、と返した。うん、好きにさせておこう。特に困ることもないのだし。握られた手が嫌なわけでもないのだから。
 口の中のダブルチョコがとても甘い。自分のストロベリーの方を味わってもなかなかチョコ味が消えなかった。次回予告のCMを眺めながら、次に観たい映画の見当をつける。ストロベリーもおいしいけど、今度来るときはダブルチョコにしようかな。でも抹茶があったらそっちにしよう。秋人はどっちにするだろうと、自然ともう一度彼女と一緒にここへ来る想像をしていている自分がおかしくなった。随分と、簡単に信条を変えたものだ。でも想像がついたものはしょうがない。握られた手の主から教わった言葉を思い出した。
『想像できたら、実現したのと同じこと』
 若干違うかしら、と幾つかの用例を考えてみた。
 映画が終わったらもう十二時は過ぎているだろうけど、秋人はお酒が飲みたいというだろう。ちらりと横目に見た秋人は、私の視線に気付いてチシャ猫のようにニタリと笑った。
 あのね、実は担当の林さんからお土産でいただいたアイスワインを開けずにとってあるし、秋人が好きそうだと買っておいたチーズケーキもあるのよ。心の中で話しかけて、なんだか、甘いものだらけの夜だと気付く。深夜の飲み会も、だいたい実現しそうだ。私はそのまま眠ってしまうかもしれないけど。
 でも、まずは心甘いレイトショーを楽しむことにしよう。流れ始めたタイトルロールが、エンドロールに変わるまで。



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