『探偵小説論序説』(抄)  笠井 潔

【(…)人為的に演出される輝かしい死のイメージは、大量死を模倣した大量生の波間を無力に漂うしかない大戦間の読者に、圧倒的な興奮と魅惑をもたらしたに違いない】

 探偵小説は〝群衆〟と共に現れた。笠井潔はこのように主張する。
 この論を鵜呑みにするならば、エラリー・クイーンの〈悲劇〉四部作の演劇的な構造やジョン・ディクスン・カーの登場人物たちが持つ喜劇的な振る舞いも、その〝群衆〟を意識したものとして受け取ることができる。日本に目を向ければ、極めて演劇的な『黒死館殺人事件』は言うに及ばず、『ドグラ・マグラ』は大衆に見せつけるための公開実験場の趣を持っているし、『虚無への供物』における〝物見高いお見物衆〟などは〝群衆〟の典型例とすら言い得ることができそうだ。また『虚無』は、自らが〝物見高いお見物衆〟つまり〝犯人〟であることを自覚しない人々を糾弾したが、アガサ・クリスティはその四半世紀も前に『そして誰もいなくなった』においてその無自覚を直接的に裁いている。
 しかし同時に笠井はこうも語る。

《内面性や精神性を欠如した人間の存在様式とは、ようするに群衆である》

 〝群衆〟という巨大な機構の中に取り込まれてしまった我々は個々の内面性や精神性を剥奪されてしまう。では探偵小説という〝群衆〟に取り込まれた作中の探偵や犯人はどうなるのか。

《探偵小説で探偵や犯人の内面が描かれないのは、必ずしも謎解きの興味が失われてしまうからではない。どのような探偵小説であろうと、探偵も犯人も振られた役柄に忠実である以上さしあたり読者には明かしえないのだが、本当は近代人にふさわしい内面性をどこかに隠しているのだという暗示を振りまいている。しかしそれは、詐欺的に近代小説を演じている探偵小説形式の作品内における第二の詐欺性なのだ。探偵も犯人も、いかにも内面的なものを隠しているかのように忠実に役柄を演じている。しかし本当のところは、どちらも群衆の人として徹底的に内面を削除された空虚なキャラクターにすぎない》

 となれば、矢吹駆がわざわざ山奥からパリの街へ降りたって対峙してきたのは、殺人事件の犯人や、数々の思想家(の分身)ではないことになる。いや、犯人も思想家も最終的にはその下に還元されてしまうのである。
 それは〝群衆〟だ。
 矢吹駆は、〝群衆〟と対峙することによって、その空虚なる内面を埋めようとしている。そして、それは笠井潔の手で、〈矢吹駆〉十部作の掉尾を飾る一作で、証明されるだろう。

★笠井潔(一九四八―    )…一九七九年に〈矢吹駆〉シリーズ第一作『バイバイ、エンジェル』でデビュー。以後、小説のみならず、思想家・哲学者としても膨大な仕事量をこなす巨人である。
初出…「EQ」一九九三年三月号~一九九五年七月号
底本…『探偵小説論序説』(東京創元社)二〇〇二年三月


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?