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『狭夜衣鴛鴦剣翅』~第一 足利直義館の段~ 附「解説1」


【登場人物】

※第一段に登場する人物のみを記す

《新田側》

☆塩冶判官高貞(えんやはんがんたかさだ)…足利に敗れ討死した新田義貞の旧家臣。本編第一部第一段では、足利直義へ降伏の証として、故・新田義貞の妻・匂当内侍を差し出し、その代わりに義貞の首と共に奪われた〝鬼丸の太刀〟及び〝錦の守り袋〟を返還してもらうため、妻・かほよと共に内侍を連れて直義の館に訪れる場面から始まる。

かほよ…塩冶判官高貞の妻。

☆匂当内侍(こうとうのないし)…故・新田義貞の妻。絶世の美人と謳われる。

《足利側》

★足利左兵衛督直義(あしかがさへいのかみただよし)…将軍・足利尊氏(あしかがたかうじ)の弟。兄・尊氏の失脚を狙い、様々な陰謀を巡らす。本編では遊蕩惰弱に描かれているが、現実の直義にそのような点は―皆無とは言えぬまでも―認められない。作者は、故意にこのような描き方をしていることを念頭に置いた方がいいだろう。

★薬師寺次郎左衛門公義(やくしじじろうざえもんきんよし)…直義の寵臣。さながら右腕といった役回りである。

★淵辺伊賀守景忠(ふちべいがのかみかげただ)…同じく直義の寵臣。さながら左腕といった役回りである。


第一段


足利直義の館の段

 仁とは、恩恵を天下に施し、深く民を憐れむことである。政道とは国を治め、民衆の善悪や親疎を分別しながら、慈しみを持って育てることだ。
 ここに足利家の次男・左兵衛督直義卿が数々の武功により、士卒をなびかせ、権威を誇ってそびえ建たせた高殿は、「三条殿」と呼ばれ畏れられていた。
 その直義とは、浮雲のように儚い富に身を忘れ、昼も夜もわからぬ淫楽にふけり、言葉巧みに取り入ろうとする家臣や奸智に長けた者どもを近づけ、その媚びへつらいを許す一方、鎌倉の兄・将軍尊氏の旧臣を憎み、それらを讒言によって自滅させ、智謀の枝を羽振りよく伸ばして、尊氏将軍を討ち滅ぼし、我儘に振舞おう、そして天下を呑もうとする下心・悪巧・逆意を企む恐ろしい者である。
 その直義に、壁に耳ある世の中とも知らずに、秘密の談合を進めて参ったのは、膝元の助役・薬師寺次郎左衛門公義であった。謀反を押しすすめるこの馬鹿丁寧な男は直義の前に頭を垂れると、
「申し上げます。去る藤島の戦いで落命した義貞の若後家・匂当内侍を伴って、塩冶判官高貞夫婦が足利方に帰服(※1)し、北国から上って参りました。本日御前に参上仕りたいとの由、君は内侍に思いをお寄せございましょう。内侍を手に入れ、その上に塩冶判官が味方に加わるとなれば竜に水、御大望は心のまま、御大願は然るべきかたちとなりましょう。さすれば、かの内侍君と引き換えと御約束しておられた鬼丸の太刀のご用意は、如何に」
と伺った。
「されば、その太刀はその方も知ってのとおり高武蔵守師直(こうむさしのかみもろなお)が義貞の首を取ったという軍功に臨み、請い受けあやつが所持しておる。奪い取って渡すため、淵辺伊賀守に取り計らうよういいつけてあるが」
と仰せになったところに、淵辺伊賀守景忠がいかにも悪者づくりの顔をひっさげ、太刀を携え、厳めしく卿の御側に寄ってきた。
「師直が館に現れた時に『鬼丸の太刀、我が君が御所望』とあれば、何かと暇入り(※2)にございます。今、師直は鎌倉へ参勤にて留守中、彼奴の母君はそう容易にこちらには渡すようなお方ではござらん。そこで考えを巡らせましたところ、師直が妻女は我が妹なれば、彼奴が訪れた際、言葉巧みに『直義卿がこのたび御太刀を御作りになろうというから、その御手本に鬼丸の太刀を使いたい、鍛冶に見せたいという御望みである。少しの間のことであるから、姑にも深くこのことを言い含めよ』といって、叔父と姪のよしみにかこつけて奪い取って参りました」
と申し上げれば直義卿、
「おぉ、稀代の働き、満足、満足じゃ。その太刀があれば、他に何も待つ必要はない。ならば、少しでも早く塩冶をこちらに召し寄こせ。望みの通り、これを遣わし、内侍を受け取って、太刀の進呈を見届け、場合によっては密事を明かし、願わくば師直が鎌倉より帰らぬうちに事を謀ろう。これ、薬師寺。急いで降人の塩冶夫婦と内侍をここへ連れて参れ。対面するぞ」
との仰せに従い、「はっ」と答えた薬師寺が御次に立つと、直義は呉王の故事(※3)も忘れ果て、焦がれる思いに募る恋心、対して淵辺は塩冶夫婦が見参する時に、いかなる心かひとつ試してやろうと手ぐすねを引いて待ち所へ座した。薬師寺に誘われ出で来る内侍の姿は恥ずかしげに顔をうつむかせている。直義卿の心中には鴛鴦(おしどり)の剣翅(つるぎば)が浮かび、それはやがて妹背の番(つがい)の鳥(※4)に姿を変えた。塩谷判官高貞と妻のかほよも旅やつれうつむいていた。三人が白洲へ通って行くのを、淵辺が突然声をかけた。
「これは、これは、塩冶殿。降人とは思えぬ帯刀。卿へのお目見えが済むまで、私めがお預かりいたそう」
 塩冶判官は咎められても角張らずに、また言葉柔らかに「これはごもっともなことで」と、素直に腰から二振りの太刀を抜いた。その振る舞いは韓信の如く(※5)。薬師寺はさらに受け取った刀をするりと抜いた。女房と内侍は、思わずはっと驚いたが、塩冶はそれでも落ち着き払い、
「これはなんとはしたないことを。降人の心底をみようと為さるのは珍しいこと。こりゃ、女房も内侍殿も御前に近いですぞ。頭を低く、控えておりなさい」
といったが、薬師寺も抜からず、
「いやなんの、わざわざ試してみるにも及ばぬほど、一事が万事、疑いは晴れ申した。殊のほか見事な刀とお見受けしましてな。誠に打ち物は持つお方の器量のほどを表すと申しますが、流石は名高き塩冶殿のお差前、あっぱれの切れ味鋭き銘刀。お戻し申し上げまする」
と減らず口を叩き、差し戻した。塩谷もまた、
「なんの、なんの、疑いが晴れて拙者が大慶。この上は御前への御取次をお願いしたい」
といって、礼を乱さぬ立派さを見せつけた。
 薬師寺は改めて御前に手をつくと、
「ご覧のごとくに内侍殿、我が君の仰せに従い、はるばるの上京、ひとえに塩冶の働き御疑いを晴らされ、御褒美の御意を下されたので、取次ぎいたしました。我々としてはこれ以上の名誉はございませぬ」
と申し上げると、直義卿は打ち解けた言葉で、
「これ、塩州。匂当内侍は南朝の宮女の如き色好みと聞き及んでおる。恋い焦がれたる折に幸い、薬師寺が取り次いで、塩冶判官高貞は新田の家を見限り、直義が味方に加わりたいとの願い、信じられぬと思っていたところ、契りを曲げずに早速同道。頼もしき心底、はなはだ祝着に申す。この上は互いに心を置かず、主従打ち解けて内侍と夫婦の語らいを睦まじくし、大切にこの腕に抱こうぞ。その証拠に、望みの品、鬼丸の太刀をつつがなく与えよう」
と、差し出したものを、はっと立ちあがって受け取り押し抱けば、女房も内侍も共にすり寄って、矯めつ眇めつ眺めた太刀は、疑いもなき新田の重宝であった。亡きその人の形見かと思えば三人顔を見合わせた後、哀切の情深く、流す涙を隠すばかりであった。
 一方、情欲に駆られ苛立つ大将は、そんな他愛ない場面よりも内侍に心を奪われ、今にも腎肝高ぶり情欲が昂ずる剣幕。それを見てとった薬師寺は、
「さて、塩冶の夫婦殿。願いの品もお目見えになったことでございますし、事も済んだことでございますから、内侍君を奥の御殿へ伴って、気分を変えて我が主君と打ち解けましょう。御酒をすすめ、御盃を数杯かたむけ、御婚礼の御祝いにいざ御同道いたしましょう」
とすすめられたが、はっと塩冶は猶予の体。女房・かほよがそれを引き取り、
「あいやお待ち下さい。それはちと言葉が違うようでございます」
「何を違うと申す」
「はて、御約束の品は錦の守り袋と御太刀のふた色のはず。もうひと色の錦の守り袋も取り揃えていただきたく。その上にて、御祝言を…」
というのを、最後まで言わせず薬師寺は、
「なるほど先だってより願いの由であるが、折に触れて詮議をいたしてみれども、義貞最期のみぎりより、錦の守り袋などというような物を持っていたという風聞は一向に聞かない。首に添えて、その太刀ばかりであったぞ。持ち帰ったのは師直だが、合戦のその場にて紛失したか、取り残したかであろう。仔細を聞こうと思うても師直は鎌倉へ参勤して留守なれば、仔細はわからぬ。その袋などあってもなくても、太刀ひと振りが大きなる品。まずは内々の御祝言が先であって、高の知れた錦の切れ端など詮議するまでもあるまい」
と吐き捨てた。しかし、
「いや、たとえ高が知れた錦の切れ端でも、御約束に相違があっては、内々の御祝言も、やりにくいもので」
「では如何に?」
「ですからねぇ、内侍様」
と見やり、同意を求めるが、いまいち合点がいかない内侍は始終差し俯いているばかり。
 薬師寺は苛立たしげに、
「何がどうして、そうなるのか。まずそんなことをいっているうちに、御祝言を。ならぬ仔細はまたあとで」
と言い詰められて、
「いや、あの、なに、その内には書いた物が」
「書いた物とは?」
「旦那様も内侍様ももうそろそろよろしいか。もうありのままに言わねばならぬでしょう。薬師寺殿」
「なんだ。早く申されい」
「その中には義貞様と内侍と互いに交わした誓いの…」
「誓文が入っているということか。しかし、それこそ死人の文言ではないか」
「いやその文言に、『二世三世、火中の灰となっても、再び義貞様と夫婦に成りたい』という内侍様の願いが入っておるのです」
と、言い紛らかすかほよの言葉に、ただ内侍も夫もうなずくばかり。対する家臣の二人は錦の守り袋などないのが実情ゆえ、返答に困ってただこれを聞いているだけであった。そこで直義、
「よし女房、そのお守りをここに持って参ろう。隠し惜しんでも益の無い反故ではあるが、先ほど、薬師寺が申したように、様子を知っている師直が鎌倉より立ち返れば、早速尋ねて進ぜよう。万が一、彼奴も知らぬとなれば、この直義が威勢を以て草をわけ、土を穿ち探し出して恋人の望みを叶えるよう気遣ってやろうぞ」
と、内侍に逃れられぬよう言った。
 塩冶は即座に進み出て、
「これはありがたき温情にございます。畢竟、誓文を入れた守り袋など、無益なものにすぎませんが、つまらぬことにこだわる女どもの願いを聞き届けて下さるほどの内侍への御愛執を私ども風情も汲み取って知ることができまして、恐悦至極この上もない幸せにございます。それにつきましても直義様、御賢慮いただきたいのは、薬師寺と淵辺の御両人は、早速本日婚姻に取り賄おうとされておいでだが、今の世で隠すこともできない都の将軍直義卿の御簾中で、降人の姿のままで御祝言とはかえって不吉。あまりにも軽はずみなことでありますし、諸卒の思うところも気の毒でしょう。近日の最上吉日を選び、表向きを改めて巍巍堂堂たる迎えの輿を請い受けて、千鶴万亀を寿て御縁を結びたく存じます」
と精いっぱい飾り立て、直義をおだて上げた。
 愚か者ほど縁起を担ぐのが世の常。
「尤ももっとも。それならば渡せし鬼丸の太刀は必ずの頼みのしるし。近々吉日に相あらため、祝儀の迎えを遣わそう。それまでしかと内侍はその方ら夫婦に預けおく。そして汝らは、粟田口にちょうどよい屋敷があるから、そこを居宅とせよ。婚礼が終わった後の恩賞は好きに求めよ。薬師寺・淵辺と諸事万端示し合わせて、忠勤に励むがよい」
との上意を嬉しそうに「はっ」と領掌を改めて、鬼丸の太刀を抱きなおすと
「この御依頼の通り、しっかりと御契約せし姫君をお預かり申し上げます。では御暇を」
と、夫婦は上辺だけの辞儀会釈をし、御前から退いた。


※1 帰服 降参し、敵方の家来となること。
※2 暇入り 時間がかかる。手間取る。
※3 呉王の故事 中国春秋時代に呉王が天下第一の美女・西施にのめりこんで遊蕩にふけり、亡国の基となった故事。
※4 鴛鴦の剣翅が浮かび、それはやがて妹背の番の鳥に
『曾我物語』からの引用。しそう王の邪恋によって死を遂げたかんはく夫婦が鴛鴦のつがいとなって、王の首をかきおとしたことから。「剣翅」は鴛鴦の尾の脇にある羽は剣の先に似ていることから。また、鴛鴦は「妹背のつがい鳥」ともいわれる。
※5 韓信の如く
韓信は中国秦末から前漢初期の武将。『史記』によると、韓信が幼い頃、町で無頼の徒に因縁をつけられ周囲に笑われながらも、相手の股をくぐるという辱めを受けたが、その韓信も後に大事をなしたという故事。大望のある者は、目前の小事に耐えて争わないというたとえ。


【解説1】

二、浄瑠璃

 そもそも「浄瑠璃」又は「人形浄瑠璃」とは何か。
 ものの辞書で調べると、次のように説明されている。

《日本固有の人形劇の一。三味線伴奏で語る義太夫節などの浄瑠璃に合わせて人形を遣うもの。語り物と人形の結び付きは古く上代よりあったが、室町後期に起こった浄瑠璃節が、江戸初期三味線と提携して、人形芝居を上演するようになって成立した。作者に近松門左衛門、太夫に竹本義太夫などが出て、演劇の一様式として確立し、歌舞伎にも影響を与えた。現在「文楽」として伝承されているものはその流れである》(『三省堂 大辞林 第三版』より)

 要するに、太夫(語り手)と三味線(音楽)と人形遣いの三者で構成される人形芝居の一種であるが、しかし私たちを混乱させるのは「人形浄瑠璃」「浄瑠璃」又は「文楽」とその呼称が一定しないことである。まず、これにはどのような相違があるのか。『竹田出雲・並木宗輔浄瑠璃集』解説で内山美樹子氏は次のように語っている。

《この解説では、人形浄瑠璃文楽と、人形浄瑠璃、浄瑠璃、および文楽ということばを重ね合わせながら、少しずつ違う語感を持つものとして使用してきた。一般に文楽といえば、現在大阪国立文楽劇場、東京国立劇場を主な拠点として興業がおこなわれる古典芸能の現実的なあり方、人形浄瑠璃というと、約四百年の歴史を持つこの芸能と、歴史的側面を指し、単に、浄瑠璃というと、この芸能の中の戯曲ないし語り物の側面を指すことが多い。三語とも同じ意味に使われることもあるが、研究者は「文楽」の語のもとになる「文楽の芝居」(芝居は劇場、文楽は経営者名)が十九世紀以後の事象であるために、近松門左衛門や並木宗輔の戯曲を、「文楽」の戯曲と呼ぶことを好まず、昭和三十年代までに刊行された人形浄瑠璃文楽の翻刻書、校注書の題名には、専ら「浄瑠璃」の語が用いられてきた》

 このあたりの表記の揺れは「探偵小説」「推理小説」「ミステリー」「ミステリ」と表記によってその指示対象が微妙にズレる斯界の状況を想起させもするが、この稿では内山説に則り、「浄瑠璃」と表記していくことにする。

 さて、現在の浄瑠璃のかたちを成立させたのは、前述した竹本義太夫と近松門左衛門である。貞享元年(1684年)、竹本義太夫が大阪道頓堀に竹本座を開設、師の基で浄瑠璃を書いていた近松門左衛門と組んで、『世継曽我』を興行し大変な評判をとった。流麗な文体と台詞回しを持つ近松の戯曲と、竹本義太夫の語りが混然一体となった浄瑠璃は、「新浄瑠璃」として一世を風靡し、それまでの浄瑠璃を「古浄瑠璃」に押しやるほどの影響力を持ったのである。その後、竹本義太夫の門弟・豊竹若太夫が、元禄16年 (1703年)、同じ大阪道頓堀に豊竹座を開設することにより、人形浄瑠璃は黄金時代を迎える。そして、文字通りその立作者となったのが、並木宗輔である。(続)

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