6「折れた剣」G・K・チェスタトンvs「監獄部屋」羽志主水 ―鬼畜の東西―

鬼畜の東西

「折れた剣」G・K・チェスタトン(1911)vs「監獄部屋」羽志主水(1926)

 チェスタトンは鬼畜です。
 例えば、「秘密の庭」のトリックをご覧なさい。「神の鉄槌」の犯人の思想をご覧なさい。「アポロの眼」の企みをご覧なさい。これらを鬼畜の所業といわずしてなんといいましょう。なかでも特に鬼畜な作品が「折れた剣」であることはいうまでもありません。問題は、チェスタトンがなぜこれほどまでに鬼畜な発想を駆使できたのかということであります。単刀直入にいえば、それは彼がカトリック教徒であったこと、つまり〝神〟を信奉していたことと大きな関りがあるでしょう。そういえば、「折れた剣」にも次のような一節がありました。

《さっきも言ったとおり、アーサー・セント・クレア卿は、自分の聖書を読む男だった。彼の問題はそこにある。いくら自分の聖書を読んだところで、あらゆる他人の聖書を読んでみないかぎり、なんの役にも立たぬということを、世間はいつになったら理解するだろう》(中村保男・訳)

 アーサー・セント・クレア卿の聖書の中にも〝神〟はいました。しかし、この世の外、つまりメタレベルに立つ〝神〟にとって、我々人間など所詮ただの物体、つまりオブジェクトに過ぎません。「折れた剣」における、アーサー・セント・クレア卿があのような鬼畜な所業も、こうした〝神〟の存在を抜きにしては語り得ないのです。そういえば、「折れた剣」は次のように始まっていました。

《森では、樹々の千本もの腕が灰色にくすみ、百万本もの指が銀色に輝いていた。》

 そして、ブラウン神父とフランボウが歩みを進める墓地は《灰色の森の荒地から不意に盛り上がった瘤か肩のような台地》にあり、行く手の森の入口は《洞窟のようにあんぐりと大口をあけていた》のです。こうした描写が〝神〟の隠喩であることはいうまでもないでしょう。

 「監獄部屋」は、そのタイトルからして既に鬼畜です。
 舞台は《北海道は北見の一角×××川の上流》に位置する《監獄部屋》。ここでこき使われる労働者たちは、近いうちに《政府(おかみ)の役人》が《巡検》しに来るという噂を聞きつけ、横暴の限りを尽くす《タコ誘拐者》たちを告発する計画を立てます。鮮やかなどんでん返しが印象的なこの一本が、プロレタリア文学であると同時に、探偵小説でもあるということは、次の一節からもうかがうことが出来ます。

《殺人、傷害、凌辱、恫喝が尋常茶飯事で、何の理由も無く平気で行われ、平気で始末される、淫売窟に性道徳が発達しない如く、斯る殺人公認の世界には探偵小説が生じ得ない。》

 これは一種のメタ的な発言です。そして、そのメタ性は探偵小説のみならずプロレタリア文学にも作用しているはずです。なぜなら、この作品の《落雷の如き結末》はプロレタリア文学であることそのものを利用した仕掛けなのですから。そこには、労働者階級に所属する自身すらも相対化(=オブジェクト化)してしまう冷めた認識が働いているように、私には思えます(そしてこうした認識は葉山嘉樹の「セメント樽の中の手紙」や平林初之輔の諸作にも共通して見受けられるのです)。

 「折れた剣」と「監獄部屋」、それぞれに現れた鬼畜の様相が、それぞれ東西を代表するものなのかどうかは、流石に私も断言しかねます。しかし、人が鬼畜になるとき、人は人の世界の外に出てしまう、そのことは覚えておいて損はないでしょう。


【底本】「折れた剣」…『ブラウン神父の童心』中村保男・訳(創元推理文庫)/「監獄部屋」…『日本探偵小説全集〈11〉名作集1』岡本綺堂ほか(創元推理文庫)

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