ミステリ通になるための短編小説一〇〇

はじめに

 SFマガジンが創刊七〇〇号を記念して、オールタイムベストアンケートをするそうです。内実は国内・海外の長編・短編。そういえば、ミステリでも『東西ミステリーベスト一〇〇』が四半世紀ぶりに改訂されましたが、作品のほとんどは長編ばかりでした。短編でのオールタイムベストは、ミステリマガジンで一回あったきり、それ以外に前例はないのでないでしょうか。そこで、今回はこの場を借りて、ミステリをより広く、より深く知るためにミステリ短編を一〇〇作品、各テーマに沿いながら、紹介していくことにしました。題して、「ミステリ通になるための短編小説一〇〇」。大仰な題ではありますが、身構えず、また肩肘張らずに読んでいただければ幸いです。

1、こころ

 先日、わけあって漱石の『こころ』を読みました。すると、「『こころ』はミステリだ」という人の気持ちがすこしだけわかってしまいました。読了後、気付くと“先生”と“K”、二人の自殺の真相に、自然と推理を働かせている自分がいたのです。おそらく『こころ』を読んだ多くの人々がその謎に挑んだのではないでしょうか。つまり、『こころ』は作品の”外”に多くの探偵を作りだした。これは、何も『こころ』にかぎった話ではないでしょう。多くの小説に多くの謎があり、多くの読み手たちがその謎に挑んでいる。では、謎を生み出すものとは何でしょうか。様ざまなものがあると思いますが、私は“多義性”だと思います。そして、その“多義性”を生むものが『こころ』ということになるでしょう。

 前置きが長くなってしまいました。第一章は、まずその『こころ』をテーマに置いた巨匠たちの作品群を紹介しましょう。

「陰獣」江戸川乱歩(1928)→『日本探偵小説全集〈2〉江戸川乱歩集』(創元推理文庫)

「とむらい機関車」大阪圭吉(1934)→『とむらい機関車』(創元推理文庫)

「めくら頭巾」ジョン・ディクスン・カー(1937)→『不可能犯罪捜査課』(創元推理文庫)

「靨」横溝正史(1946)→『消すな蝋燭』(出版芸術社)

「遭難」松本清張(1958)→『黒い画集』(新潮文庫)

「裸で転がる」鮎川哲也(1963)→『裸で転がる』(角川文庫)

「最後の一壜」スタンリィ・エリン(1968)→『最後の一壜』(ハヤカワポケットミステリ)

「不義士志願」高木彬光(1972)→『ミイラ志願』(講談社文庫)

「火口箱」ミネット・ウォルターズ(1999)→『火口箱/養鶏場の殺人』(創元推理文庫)

「リベルタスの寓話」島田荘司(2007)→『リベルタスの寓話』(講談社文庫)

 乱歩が「陰獣」を発表したのは一九二八年。デビューしたのが一九二三年ですからデビューからわずか五年です。しかし、「新青年」掲載時の惹句は《懐かしの乱歩》(c横溝正史)でした。乱歩の作家性を表しています。生きていれば、乱歩に並ぶ存在になったかもしれないのが大阪圭吉。一編となれば、やはり「とむらい機関車」でしょうか。役割分担の巧さが作品を独善的になることから救っています。”巨匠(マエストロ)”カーの「めくら頭巾」は『火刑法廷』と同傾向のホラー・ミステリ。読了後、是非一頁目に戻ってください。さらなる恐怖があなたを待っています。大横溝、最初期の作品「靨」は“復員”“入れ替わり”“○○トリック”など、おなじみのモチーフが散りばめられた、後の傑作群のプロトタイプ。題名と呼応した幕切れが◎。清張の「遭難」は全編に漲るサスペンスが強烈。“山男に悪人がいない”という言葉に反發し、この作品を物するあたりがこの作者らしいですね。みんな大好き”あゆてつ”もとい鮎川哲也は、「赤い密室」「達也が嗤う」「五つの時計」など数多くの傑作を遺しましたが、ここでは渋めに「裸で転がる」を。トリックは既作の焼き直しの感が強いですが、出だしの味わい(これも読了後、冒頭へ)といい、生き生きとした人物たちといい、印象的なラストといい、すべてが愛おしい佳品。さて、名手・エリンには、「倅の質問」というまさに『こころ』を扱った作品もありますが、完成度という点で「最後の一壜」を推します。“ワイン・心臓・大富豪”という三題噺のような作品で、書き出しから最後の一行まで間然とするところがない。名手の銘酒といったところ。”槍の名手・高田郡兵衛はなぜ討ち入りに参加しなかったのか”という謎を中核に置いた忠臣蔵余話「不義士志願」は彬光の隠れたる名作。そこから更に一歩進めたのが、盟友・山田風太郎の「生きている上野介」です。併せて読んでみてください。最後に紹介するのは日英を代表する現代本格の巨匠二人。ミネット・ウォルターズの「火口箱」は、「創元推理」に掲載されたまま、長らく放置されていましたが、今年三月めでたく創元推理文庫入りを果たしました。何かに取り憑かれた人々が跳梁跋扈するウォルターズ節は中編においても健在です。対して「リベルタスの寓話」は、ボスニア紛争を背景に、お得意の死体損壊や医化学トリック、マネーロンダリングにRMT、そして合間に差し挟まれる“リベルタスの寓話”など盛り沢山の内容でやりたい放題やりきった力作中編。あらかたの謎が解かれた後に残る”なぜ?”の問が(ほとんど説明されないあたりが特に)、秀逸です。

2、文学と探偵小説

「オイディプス王」ソポクレス(前427?) →『ギリシア悲劇〈2〉ソポクレス』(ちくま文庫)

「黄金虫」エドガー・アラン・ポー(1843)→『ポオ小説全集〈4〉』(創元推理文庫)

「死後の恋」夢野久作(1928)→『瓶詰の地獄』(角川文庫)

「ブランディングス城を襲う無法の嵐」P・G・ウッドハウス(1937)→『エムズワース卿の受難録』(文春文庫)

「エッジウェア通り」グレアム・グリーン(1939)→『二十一の短編』(ハヤカワepi文庫)

「アンゴウ」坂口安吾(1948)→『日本探偵小説全集〈10〉坂口安吾集』(創元推理文庫)

「ラムレの証言」ガッサーン・カナファーニー(1962)→『池澤夏樹=個人編集 世界文学全集〈3〉短篇コレクションⅠ』(河出書房新社)

「横しぐれ」丸谷才一(1974)→『横しぐれ』(講談社文芸文庫)

「アベリーノ・アレドンド」ホルヘ・ルイヘ・ボルヘス(1975)→『砂の本』(集英社文庫)

「未来圏からの質問」ますむらひろし(1995) →『銀河鉄道の夜』(扶桑社文庫)

《どうしても書かねばならぬこと、書く必要のあること、ただ、そのやむべからざる必要にのみ応じて、書きつくされなければならぬ》

(坂口安吾「日本文化私観」より)

 ミステリでは《トリックの必然性》という話がよくなされます。しかし、必然性が求められるのは何もミステリにかぎった話ではありません。文学もまた然り。例えば「オイディプス王」や「黄金虫」を、ソポクレスやポーがミステリとして書いたとは到底思われません。しかし、いずれも不可思議な謎があり、鮮やかな解決がある。これはまさに作品が、そしてテーマがその解決を呼び寄せた顕著な例ではないでしょうか。「死後の恋」「エッジウェア通り」においても同じことが言えます。前者はあの凄艶な森の中の虐殺場面を描くために、後者はラストの語り手のあの叫びを聞くために、それぞれトリックが必要とされているのです。さて、ウッドハウスの「ブランディングス城を襲う無法の嵐」の抱腹絶倒の展開は著者の看板シリーズ「ジーヴス」ものに勝るとも劣らず。綿菓子のような頭を持つエムズワース卿とその愉快な仲間たちが織りなすドタバタ劇を最後の最後までお楽しみください。“その昔、父が旅先で行き会った乞食坊主は種田山頭火ではなかったか―”。その謎を国文学者の語り手が解明していく「横しぐれ」は、ウッドハウスほど直接的なユーモアではありませんが、所々でクスリとしてしまう作品。勿論、父の過去を追っていくうちに、恩師と山頭火、そして語り手自らの人生をも浮かび上がらせていく手際も見事です。「横しぐれ」が現実の人物に材を取った作品なら、「未来圏からの質問」は現実の作品に材に取った作品。といっても実は、マンガ『銀河鉄道の夜』(映画にもなりましたね)のあとがきなので、“作品”といえるかどうかは微妙なところですが、しかし、ここで展開される“三角標”の推理は紛れもなく本格推理のそれです。「ラムレの証言」は六頁ほどの、戦争の暗部を子どもの目線からスケッチした掌編。しかし、その筆致は強く、熱い。実は今回(作品の完成度とはまた別の理由で)入れるかどうか一番迷った作品です。さて、ラテンアメリカの雄・ボルヘスには、ミステリ味の濃い短編が幾つもあります。有名なのは「八岐の園」「死とコンパス」あたりでしょうが、「アベリーノ・アレドンド」は知名度こそ劣るにせよ、その切れ味は前述の作品をはるかに優ります。ほとんど神業の域。「アンゴウ」は題名の通り、暗号もの。「黄金虫」が暗号を突き詰めた最初にして究極の作品というならば、こちらは暗号を通して、謎解きの向こう側にあるものを描ききった作品といえるでしょう。さて、この章の最後にふたつの“A”を並べたのにはわけがあります。実は、この二作品こそが私のオールタイムベスト短編のトップ2なのです。

3、探偵たち

「赤毛組合」アーサー・コナン・ドイル(1891)→『シャーロック・ホームズの冒険』(光文社文庫)

「折れた剣」G・K・チェスタトン(1911)→『ブラウン神父の童心』(創元推理文庫)

「春の雪解」岡本綺堂(1918)→『半七捕物帳〈1〉』(光文社時代小説文庫)

「ベナレスへの道」T・S・ストリブリング(1926)→『カリブ諸島の手がかり』(河出文庫)

「金魚」レイモンド・チャンドラー(1938)→『赤い風』(創元推理文庫)

「女を探せ」ロス・マクドナルド(1946)→『ミッドナイトブルー』(創元推理文庫)

「アデスタを吹く冷たい風」トマス・フラナガン(1952)→『アデスタを吹く冷たい風』(ハヤカワポケットミステリ)

「そして鳥は歌い続ける」クレイグ・ライス(1952)→『マローン殺し』(創元推理文庫)

「ただ一度のチャンス」S・J・ローザン(1996)→『夜の試写室』(創元推理文庫)

「収束」麻耶雄嵩(2010)→『メルカトルかく語りき』(講談社文庫)

 

 ミステリの花形、名探偵。ここでは、その探偵たちが活躍する短編をご紹介。

 シャーロック・ホームズ。多言を弄する必要もないでしょう。ちなみの私のホームズベスト3は「赤毛」に加え、「サセックスの悪魔」「白銀号事件」です。ブラウン神父。飄々として、物事に動じないイメージがあるかもしれませんが、怒ったり、叫んだり、地団太を踏んだり、実は喜怒哀楽が激しい神父さんです。「折れた剣」は、“木を隠すなら…”という警句が有名。その悪魔的発想に並び立つものなし。「江戸時代に於ける隠れたシャアロック・ホームズ」半七。『半七捕物帳』はどれを読んでも外れがありませんが、ラストに不可思議な余韻が残る「春の雪解」を選びました。趣向の後先を云々するのは無粋ですが、『火刑法廷』の十九年前に書かれていることに注目。ポジオリ博士。ラストに超自然が介入してくる作品として「ベナレスへの道」を逸することはできません。《最後の最後で推理小説の底が抜ける》(c有栖川有栖)伝説の怪作。我慢できないポジオリ教授が右往左往する中盤が我がことのようで、面白おかしくも痛々しい。フィリップ・マーロウ。チャンドラー短編の中では、超A級の「待っている」「赤い風」に次ぐ、二番手ぐらいの位置づけでしょうか。しかし「金魚」という、彼らしからぬ題に惑わされてはいけません。意外な隠し場所トリック(そこが眼目ではありませんが)があるなど、本格味の強い作品。タイプの違う三人の女性が登場し、いずれも強烈な印象を残すあたり、作者の膂力を感じます。リュウ・アーチャー。「女を探せ」のアーチャーは、事件に自ら介入していく若々しく、荒々しいアーチャー。それもそのはず、本作はロス・マクの処女作なのです。それでも、後にロス・マクが追い続ける数々のテーマが、ここですでにもう谺しています。ビル・スミス。アメフトを題材とした長編『冬そして夜』に対して、「ただ一度のチャンス」の題材はバスケットボール。人種差別、貧困、HIV。現代アメリカにいまだに巣食う問題に立ちすくむしかない探偵がやるせない。テナント少佐。職業軍人として、国家の法規と自らの良心に板挟みになりながらも、己の流儀を貫き通す老兵テナント。わずか四つの短編にしか登場しませんが、その存在感は圧倒的です。「アデスタに吹く冷たい風」は、彼の初登場作。J・J・マローン。本格派、ハードボイルド派ときて、次は人情派。酒と涙と女が似合う酔いどれ刑事弁護士マローンの登場です。ライスの短編は往々にして脇が甘く、プロットが破綻気味の場合が多いのですが、「そして鳥は歌い続ける」は、珍しく着地まで美しく成功した例です。二転三転するプロッティングはさながらジャグリングのよう。メルカトル鮎。現代本格の最先端(袋小路?)、「収束」。冒頭のモノローグが文字通り“収束”されていく過程に唖然。ホントにこの作者の頭の中はどうなっているのだろうと考え込んでしまいます。子どもには子どもの、狂人には狂人の、麻耶には麻耶の論理があるということでしょうか。

4、女たち

「永遠の女囚」木々高太郎(1938)→『日本探偵小説全集〈7〉 木々高太郎集』(創元推理文庫)

「エリナーの肖像」マージャリー・アラン(1947)→『謎のギャラリー 謎の部屋』(ちくま文庫)

「新かぐや姫」山田風太郎(1951)→『棺の中の悦楽』(光文社文庫)

「動機」ダフネ・デュ・モーリア(1952)→『鳥』(創元推理文庫)

「おたね」仁木悦子(1960)→『夢魔の爪』(角川文庫)

「火焔樹の下で」皆川博子(1977)→『鳥少年』(創元推理文庫)

「お初さんの逮夜」戸板康二(1978)→『目黒の狂女』(創元推理文庫)

「ゆきなだれ」泡坂妻夫(1983)→『ゆきなだれ』(文春文庫)

「クリスティーナ・ローゼンタール」ジェフリー・アーチャー(1988)→『十二の意外な結末』(新潮文庫)

「赤い糸の呻き」西澤保彦(2011)→『赤い糸の呻き』(創元推理文庫)

 男臭い前章から打って変って、この章では印象的な女性たちが登場する作品をご紹介します。「永遠の女囚」の桂は、父・九右衛門があてがった婿を捨てる、別の男と駆け落ちをする、その駆け落ち相手も結局捨ててしまう…という奔放な少女。しかし、父が殺されると共に、彼女の隠された心も明らかになります。古風といえば古風ですが、私はこういう女性像に弱いのです。「エリナーの肖像」のエリナー・メイヒューは、かつて“グラマーシー”という屋敷に住んでいましたが不慮の事故によってこの世を去ってしまいます。そして、そのエリナーの肖像画が屋敷の書斎に飾られている。エリナー亡きあと、屋敷に移り住むことになったジューディはその肖像を見たとき《肩をつかまれた》ような気持ちになります。読了後、あなたもきっと同じ気持ちになるはずです。さて、「新かぐや姫」の“聖処女”冬子は子供を産めるような体ではないのに妊娠しました。なぜか?父親は誰か?山田風太郎が追い求めたテーマの一つ“聖母/娼婦の二面性”について、一つの決着を導き出した名作。本物のひねくれ者はひねくれすぎて真っ当なところに戻ってきてしまうのです。「動機」は、その題の通り、“出産前の貴婦人がなぜ自殺したのか”という動機を探る物語。私立探偵の“世界を救ってやれよ”という一言に胸を抉られます。「おたね」は、有閑夫人が偶然街でかつて自宅に勤めていた女中(=たね)に出会うところから始まります。たねは、不運な事故で夫を亡くし、女手一つで三人の子供たちを育て上げました。そして、たねはその夫が亡くなった時のことを話し始めます…。カットバックを使いながら、過去の事件を掘り起こしていく手際が怖い、こわい。特に、結末でたねが発するある一言の怖ろしさたるや。怖さなら「火焔樹の下で」も負けていない。精神病院で絵画療法を施す女医とそれを紹介する作家、彼に憧れる准看護婦。彼女たちの往復書簡から屈折した人間模様が浮かび上がっていきます。特に、女医と准看護婦の手紙から伝わってくる情念の凄み。そして、それを嘲笑うかのような終末。女が女を見る目は、男のそれよりも厳しく、さらに恐ろしいことを痛感させられます。手紙が大きな意味を果たす「お初さんの逮夜」は涙なしでは読めません。敵役の名手・金四郎の妻、お初さんが急逝した。目立たない人であったお初さんだが、実は稀にみる賢婦人であったことが通夜の夜に明らかになっていきます。「エリナー」もそうですが、直接描写しないことによって、その人物を浮かび上がらせていく手法が誠に秀逸。そして、その手法を支えているのが作者の深い教養であることは言うまでもありません。涙なし、ということなら「ゆきなだれ」「クリスティーナ・ローゼンタール」もいい勝負。両者ともあまりのも哀れなヒロインの肖像が忘れ難い。前者は中途の展開が性急に感じられますし、後者の組み立てはベタ中のベタ。しかし、それを問題にしないほどの練達ぶりに頭が下がります。そして、「赤い糸の呻き」の印象的な女性は……いわないでおきましょう。いろいろとノイズも多い作品ですが、それがラストの超展開に見事に響いていきます。流石は『依存』の作者です。

5、掌編

「『オカアサン』」佐藤春夫(1926)→『日本探偵小説全集〈11〉 名作集』(創元推理文庫)

「可哀相な姉」渡辺温(1927)→『アンドロギュヌスの裔』(創元推理文庫)

「昆虫図」久生十蘭(1939)→『日本探偵小説全集〈8〉久生十蘭集』(創元推理文庫)

「叫べ、沈黙よ」フレドリック・ブラウン(1948)→『まっ白な嘘』(創元推理文庫)

「高天原の犯罪」(1948) →『天城一の密室犯罪学教程』(日本評論社)

「天狗」大坪砂男(1948)→『天狗』(創元推理文庫)

「廃墟にて」ロアルド・ダール(1964) →『あなたに似た人〔新訳版〕Ⅱ』(ハヤカワミステリ文庫)

「公園にて」中井英夫(1970)→『幻想博物館 とらんぷ譚Ⅰ』(講談社文庫)

「そして赤い薔薇一輪を忘れずに」アヴラム・デイビットスン(1975)→『どんがらがん』(河出文庫)

「奇跡」依井貴裕(1997)→『ミステリー傑作選・特別編〈6〉自選ショート・ミステリー2』(講談社文庫)

 長い文章にお疲れではないですか?この項のテーマは“掌編”。紹介もテンポよく参りましょう。「『オカアサン』」は、鸚鵡の言葉遣いから以前に飼われていた家庭を推理する、一種の安楽椅子探偵もの。結末は切なく、また侘しい。「可哀想な姉」は、あまりにも残酷な“大人の童話”。でも不思議と残虐さは感じません。「昆虫図」は僅か三頁の超掌編ながら、その中で展開されるイメージの豊かさは特筆すべきものです。イメージの豊かさなら「そして赤い薔薇一論を忘れずに」も忘れてはいけない。掴みどころのない、それでいてうっとりするような題が、読み終わったと同時にすとんと腑に落ちる。題といえば、「叫べ、沈黙よ」も、いい。「沈黙と叫び」(星新一の訳だったと思います)でも悪くありませんが、イメージの喚起力では前者。「公園にて」はアンファンテリブルものかと思わせて…からの一捻りが巧み。“小説は天帝に捧げる果物、一行でも腐っていてはならない”と語った作者らしい、間然とするところのない一編。『幻想博物館』所収の「大望ある乗客」「チッペンデールの寝台」「地下街」等は、よくできたミステリ短編以外の何物でもありません。本格ミステリファンも是非読んでください。さて“天”の高みまで到達してしまった作品が、「高天原の犯罪」と、「天狗」の二作です。前者は、心理的密室トリックとしては究極。この発想が日本人から出てきたというのは興味深い。後者は雑誌採録が五回、アンソロジー採録が十三回。江戸川乱歩・中井英夫・都筑道夫・澁澤龍彦・島田荘司ら錚々たる面々の賛辞。これ以上、付け加えることがあるでしょうか。どちらもも鋼のような文体に支えられている、ということだけを指摘しておきましょう。このように、素晴らしい掌編には、魅力的なタイトル、イメージの豊饒さ、切り詰められた文体、他を寄せ付けない奇想、そしてオンリーワンのスタイルと、いくつか共通点があるようです。それらをすべて兼ね備えた短編が「廃墟にて」。これはもう読んでください。ラストはほっこりと依井貴裕の「奇跡」でこの頁を〆。 “この作者がこれを書くのか!(書けるのか!)”という意外性も含めて印象深い感涙のウェディングストーリーです。

6、あの時、あの場所で

「燕京綺譚」ヘレン・マクロイ(1946)→『51番目の密室』(ハヤカワポケットミステリ)

「九雷渓」陳舜臣(1962)→『玉嶺よ、ふたたび』(集英社文庫)

「つるばあ」石沢英太郎(1963)→『外地探偵小説集 満洲篇』(せらび書房)

「南神威島」西村京太郎(1969)→『南神威島』(講談社文庫)

「下僕にドラゴンの血を」新羽精之(1977)→『幻影城No.32 1977年7月号』(幻影城)

「夜から来た女」梶龍雄(1983)→『灰色の季節』(光風社出版)

「柘榴の聖母」篠田真由美(1993)→『創元推理〈2〉』(東京創元社)

「夜の顔」巽昌章(1994)→『殺人博物館へようこそ』(講談社文庫)

「狐者異」京極夏彦(1999) →『続巷説百物語』(角川文庫)

「一九四一年のモーゼル」北山猛邦(2004)→『ミステリーズ! extra』(東京創元社)

 小田和正ではありません。

 謎解きがその時や場所と密接にかかわっている時代ミステリを中心に選びました。「燕京綺譚」は、伝説のアンソロジー『37の短編』のメンバー。清朝末期、北京を舞台としたオリエンタリズム溢れる作品です。「東洋趣味」という別題で『歌うダイアモンド』(創元推理文庫)にも収録されています。中国を舞台とした作品ならもう一つ「九雷渓」が思い出されます。死に瀕した詩人革命家と、彼の周囲で起こった不可能犯罪。小道具の巧みな使い方とともに、作者の酷薄な歴史観の一端を垣間見ることができます。続く、「つるばあ」の舞台は満州。こちらも不可能犯罪を扱っていますが、トリックも、犯人も想定内。しかし、“ある一点”で鮮烈な印象を残します。初出ではその“ある一点”が冒頭で説明されていました。これが処女作だということと同様に信じがたい話です。「南神威島」はトラベルミステリーの代名詞・西村京太郎の手に成る作。南方の閉鎖的な(女性は開放的なのですが…)孤島に赴任した医師。彼は図らずも島に伝染病を持ち込んでしまうが…。一見“奇妙な論理”に見えますが、実は至極合理的な話。田舎には田舎の、孤島には孤島の合理性が存在するのです。“奇妙な論理”なら切支丹ものの「下僕にドラゴンの血を」。キリスト教の布教に情熱を燃やした若き神父が陥った皮肉な最期を描いた逸品です。ややアマチュア臭も漂いますが、その発想はチェスタトン、泡坂妻夫らに匹敵。ただし、本作は今年ようやく出た『新羽精之探偵小説選』にも収録されておらず、伝説の探偵小説雑誌「幻影城」でしか読むことができません。次の「柘榴の聖母」も雑誌『創元推理』でしか読むことができません。十五世紀フィレンツェを舞台にした歴史ミステリですが、時代考証でいくつかミスがあるということで、いまだ単行本等には採録されていません。両者とも何かの形で読めるようになってほしいところ。入手難といえば、梶龍雄の著作の中でも、とっておきのキキメ本が、『灰色の季節』。戦時中、ギョライ先生とその生徒・野沢くんが謎解きに挑む本作の悼尾を飾るのが「夜から来た女」です。折り目正しい犯人あてであり、特にラストの一節が作品に深みを与えています。もう一つ印象的な“夜”が「夜の顔」。作者は京大推理小説研究会が生んだ、最大の才能(と私が勝手に思っている)巽昌章。こちらは、『推理小説年鑑』にも収録され、文庫化もされましたから、前述の作品群よりは入手しやすいはずです。逆に、入手が容易なのに、意外と読まれていないのが『巷説百物語』シリーズ。このシリーズは京極版“必殺仕事人”であるとともに、『半七』~『顎十郎』~『なめくじ長屋』の衣鉢を継ぐ捕物帖でもあるのです。「狐者異」も意匠こそ京極風ながら、その内実は正統派のフーダニット。ラストは、ようやく最近ブレイクの兆しがみえてきた北山猛邦の「一九四一年のモーゼル」を。舞台は旧ソ連の都市レニングラードで起きた館の消失事件を扱っています。作者お得意の物理トリックに加え、フィニッシング・ストロークもバッチリ決まった快作。そろそろ、単行本にまとめられてもいい頃合いですが。

7、ここではないどこか

「うそつき」アイザック・アシモフ(1941)→『われはロボット〈完全版〉』(ハヤカワSF文庫)

「月の蛾」ジャック・ヴァンス(1961)→『奇跡なす者たち』(国書刊行会)

「時の顔」小松左京(1962)→『小松左京セレクション〈1〉』(河出文庫)

「イカロスの翼」堀晃(1970)→『太陽風交点』(徳間文庫)

「道化の町」ジェイムズ・パウエル(1989)→『道化の町』(河出書房新社)

「あれか、これか」コニー・ウィリス(1989)→『SFマガジン1990年12月号』(早川書房)

「スパイス」森岡浩之(1993)→『夢の樹が接げたなら』(ハヤカワ文庫JA)

「曲がった犯罪」山口雅也(1996)→『キッド・ピストルズの冒涜』(創元推理文庫)

「マックたち」テリー・ビッスン(1999)→『平ら山を越えて』(河出書房新社)

「新釈おとぎばなし」北村薫(2005)→『紙魚家崩壊』(講談社文庫)

 GRAYではありません。

 前章に対して、私たちが暮らす現実とは違った世界で謎解きを展開する作品群、主にSFミステリを中心にセレクトしました。巨匠アシモフのロボットものは、そのほとんどがミステリとしても読める優れモノ。「うそつき」はロボット心理学者(名探偵!)スーザン・キャリヴァンが恋に落ちる異色編。心を読むロボットに翻弄される科学者たちが哀れ。「月の蛾」の世界観はこの十編の中でもとりわけ異色。舞台は住人すべてが仮面で素顔を隠している島・シレーヌ。特殊な楽器をかき鳴らし、歌を歌いながら会話しなければならず、また相手の身分や階級に併せてその楽器を変えなければならないという七面倒なルール。そんな中でフーダニットが展開されるのです。心躍らないことがあるでしょうか。『マイナス・ゼロ』や『タイム・リープ』を引き合いに出すまでもなく、タイムトラベル物は突き詰めていくとミステリになります。「時の顔」もまた然り。江戸時代のいきいきとした描写も印象的です。「イカロスの翼」は、政治犯として太陽に近接する小惑星“イカロス”流しになった男がどうやって生き延びるか…という話。これはハウダニットそのものでしょう。私感では、『星を継ぐもの』の読み味に最も近い作品でした。「道化の町」は謎解き自体も及第点ですが、それよりも偉大な道化だった父と比べられ、そのくせうだつはあがらず、ついには妻にも逃げられてしまったポゾ警部の哀愁漂う造形がいい。どんな世界であっても、人間が持つ哀しみは普遍的なものです。「あれか、これか」は《ロボット三原則》を作ったアシモフ本人に、ロボットがクレームをつけにいく、という発端だけでもう面白い。SFマガジンに載ったきり作品ですが、コニー・ウィリスは現在続々と邦訳、単行本化が進んでいます。早い段階で読みやすい形になることを期待しましょう。ガラリと趣が変わって「スパイス」は恐るべき作品。周到な計画と卓越した手腕で巨万の富を築いた男。彼はその富で“食べるため”に人間とそっくりの容姿と感情と記憶を持った人口生命体の少女を作り出します。しかし、彼女を食すためには、一つだけ“スパイス”が足りませんでした。鼻持ちならない女主人公がひねりつぶされる展開はいっそ爽快ですらあります。クローン・テーマを扱った作品でもう一つ、「マックたち」を。犯罪者のクローンを作り、被害者にその生死を一存することが法制化されたアメリカの話。SF短編ですが、第十章にも通ずるテーマを内包しています。ちょっと暗い作品が続いてしまったので、最後はパラレルワールドを舞台とした楽しい作品を二つ。ご存じ、キッド・ピストルズものはパラレルワールド英国を舞台としたパンク本格ミステリ。「曲がった犯罪」は“パンクの世界でクイーンとチェスタトンが出会った”としか言いようのない秀作。芸術論を扱った作品として「戻り川心中」(連城三紀彦)や「カット・アウト」(法月綸太郎)、「装飾評伝」(松本清張) 等と並べてみたい。さて、この章の最後は“おとぎの国”の“カチカチ山殺人事件”に“名探偵・ウサギちゃん”が挑む「新釈おとぎばなし」で打ち止め。半小説半エッセイという珍しいかたちは、作者でなければできない芸当。親父ギャグスレスレ(そのもの?)の文体に耐えることができれば、間違いなく幸福な読書体験を過ごすことができるでしょう。

8、落雷のごとき

「監獄部屋」羽志主水(1926)→『日本探偵小説全集〈11〉 名作集』(創元推理文庫)

「敵」シャーロット・アームストロング(1950)→『あなたならどうしますか?』(創元推理文庫)

「新幹線ジャック」山村美紗(1978)→『幻の指定席』(文春文庫)

「脱出経路」レジナルド・ヒル(1979)→『法月綸太郎の本格ミステリ・アンソロジー』(角川文庫)

「夜よ鼠たちのために」連城三紀彦(1982)→『夜よ鼠たちのために』(宝島社文庫)

「極楽まくらおとし図」深沢七郎(1984)→『ちくま日本文学全集52 深沢七郎』(ちくま文庫)

「水中眼鏡の女」逢坂剛(1986)→『水中眼鏡の女』(集英社文庫)

「光と影の誘惑」貫井徳郎(1995)→『光と影の誘惑』(創元推理文庫)

「ニューメキシコの月」恩田陸(1996) →『象と耳鳴り』(集英社文庫)

「三角関係」ジェフリー・ディーヴァー(1999)→『クリスマス・プレゼント』(文春文庫)

 《落雷のごとき結末》とは、「監獄部屋」に対する北村薫の評言。評はそのあと、こう続きます。《内容・表現・技巧の完全な一致がここにある》。尚、青空文庫でも読むことができます。ということで、この章では、結末の驚きに重点を置いた作品が顔を揃えます。「敵」はEQMM短編コンテストの第一席受賞作。一匹の犬の死が残酷な真相を引きずり出す。これを書く人が『毒薬の小壜』をものにするのですから、作家とは不思議なものです。「新幹線ジャック」は知る人ぞ知る誘拐ものの傑作。長編に出来そうなアイディアを短編で使い切った思い切りの良さが光ります。ラスト一行も見事。「脱出経路」もラスト一行まで予断を許しません。一つ一つのアイディアはありがちなものなのに、異様なシチュエーションに置くことによって、隙のない作品に仕上がっています。「夜よ鼠たちのために」は、天才職人・連城三紀彦が、抒情性や流麗な文体を抑え、どんでん返しに注力した一大問題作。三つの奇想を一本の短編にぶち込むという荒技。あまりの荒技に、単行本では作者自身の註がついたという曰くつきの作品です。「極楽まくらおとし図」も凄い。最後まで読めば、伝説の処女作「楢山節考」と通底するテーマを内包していることがわかるはずです。「水中眼鏡の女」と「光と影の誘惑」は是非読み比べてみてほしい作。両者とも、カットバックを使いながらサスペンスを盛り上げ、驚愕の結末に読者を導いていきます。社会派のような顔をして、結局人間の卑小さに話が落ちていくところも実はよく似ている。「ニューメキシコの月」はベッド・ディティクティブ・ストーリー。大量殺人犯から、毎年送られてくる「エルナンデスの月の出」(アンセル・アダムズによって撮られた有名な写真)のはがき。これは何を意味し、何を伝えようとしているのか…。加害者心理の中に踏み込んでいく推理が印象的。安楽椅子探偵ものは、やはりこういった心理への踏み込みがないと。最後は、現代を代表するエンターテイナー・ジェフリー・ディーヴァーにご登場願いましょう。リンカーン・ライムシリーズが看板の氏ですが、短編の腕前も抜群。「三角関係」も、急転直下のサプライズ・エンディングがお見事。ただ、個人的には職人的に過ぎ、深みに欠ける部分が少々物足りない(同様の意味で、今回はO・ヘンリー、スレッサー、リッチー、ホック、日本でいえば佐野洋といった職人的短編作家の選出は控えました。もちろん、代表作が決めづらいという事情もあります)。「三角関係」も、“モー”の説明なんかしなくてもいいのに…、と思ってしまいます。以上、贅沢な注文でした。

9、せつない

「シンボル」パーシヴァル・ワイルド(1929)→『悪党どものお楽しみ』(国書刊行会)

「死ね、名演奏家、死ね」シオドア・スタージョン(1949)→『一角獣・多角獣』(早川書房)

「ヒマラヤの鬼神」埴輪史郎(1952)→『別冊宝石 1952年20号』(岩谷書店)

「デッドロック」エドマンド・クリスピン(1953)→『列車に御用心』(論創社)

「狐の鶏」日影丈吉(1955)→『日本推理作家協会賞受賞作全集〈8〉短篇集Ⅱ』(双葉文庫)

「白い火のゆくえ」天藤真(1964)→『星を拾う男たち』(創元推理文庫)

「蜃気楼博士」都筑道夫(1970) →『都筑道夫少年小説コレクション〈3〉蜃気楼博士』(本の雑誌社)

「サボテンの花」宮部みゆき(1989)→『我らが隣人の犯罪』(文春文庫)

「しあわせは子猫のかたち」乙一(2000)→『失踪HOLIDAY』(角川文庫)

「卒業文集」森博嗣(2001) →『僕は秋子に借りがある』 (講談社文庫)

 “せつない”という感情はとても魅力的なものだと思いませんか?

 悲しさや恋しさとも違い、苦しさや悔しさとも違う。やるせないような、やりきれないような、なんとも言い表せない感情。この章ではそんな“せつない”を感じさせる作品を紹介します。『悪党どものお楽しみ』は、時代を超える面白さを持っています。主人公の元いかさま師ジム・パームリーがいかさま師破りとなり、八面六臂の活躍をする痛快連作集。その巻頭作が「シンボル」です。彼がいかさま師から足を洗う契機を描いたこの短編は、パームリーの涙が“せつない”。これが巻頭にあることで作品集全体が締まっています。ジャズ小説の白眉「死ね、名演奏家、死ね」は、ジャズバンドの司会者(醜男)が、バンドマスターである偉大なマエストロを“三度殺す”話。異様にみえて、実は普遍的なテーマを扱っている点がミソ。ラスト一センテンスが“せつない”。「ヒマラヤの鬼神(カングミ)」は、島荘理論を先駆けたような作品。太平洋戦争中、東京・ベルリン間の単独飛行中に消息を絶った男の悲恋の顛末が“せつない”。「デッドロック」は昨年度の本格ミステリベスト10で第一位を獲得した『列車に御用心』から。パズラーとしてのツボをしっかり抑えながら、青春小説としても秀逸。語り手による淡々とした述懐が、かえって“せつない”。“女房を殺す夢を見た男が目覚めると,女房は殺されていた…”という魅力的な発端から、徐々に主人公が追い詰められていく「狐の鶏」は日本推理作家協会賞受賞作。主人公が受ける仕打ちが理不尽であればある程、残酷なはずの結末(映画『新幹線大爆破』を想起させられました)がいっそ爽快にすら感じられ、また“せつない”のです。こうしてみると、“せつない”には、“戦争”と“子ども”というキーワードが密接の絡んでいるようです。次の四作品は、その“子ども”を前面に押し出した作品。「蜃気楼博士」は題名からもわかるようにジョブナイルです。しかし、作者が都筑道夫ですから、一切手抜きはありません(あとがきからもその熱意が伝わるでしょう)。最後の読者への問いかけが“せつない”。同じくジョブナイルの「白い火のゆくえ」は、幻の切手“白い火”を巡る騒動を描いたお話。題材こそ隔世の感がありますが、作品に込められたメッセージはいつの時代も変わらない普遍的なものです。特に、“犯人”との対話が“せつない”。宮部みゆきの「サボテンの花」は、名作と呼ばれて久しいわけですが、意外に欠点もちらほら(例えば、卒業担任の登校拒否が許されるのか、それでなぜ副校長が代理なのか、サボテンで○○はできるのか…etc)。しかし、それを問題にしないほど輝きを持っているのも確か、です。小学生といえば、「卒業文集」。とある小学校の卒業文集を並べただけなのに、これがなんとも“せつない”。読了後、すぐに読み返したくなるはずです。第五章の「奇跡」と同じく、森博嗣がこれを書くとは思わなんだ。「しあわせは子猫のかたち」の“子ども”は、同じ“子ども”でも“子猫”。現実から半歩浮いたような設定が持ち味の乙一ですが、その解決には確かに本格に血が流れています。本作も、冗談のようなシチュエーションから、折り目正しい解決に至るとはだれも思わないでしょう。“せつなさの達人”の面目躍如といったところ。

10、罪と罰

「誰でもない男の裁判」A・H・Z・カー(1950)→『誰でもない男の裁判』(晶文社)

「死刑前夜」ブレット・ハリディ(1938)→『天外消失』(ハヤカワポケットミステリ)

「判事と死刑執行人」フレードリヒ・デュレンマット(1952) →『判事と死刑執行人』(同学社)

「キャロル事件」エラリー・クイーン(1958)→『クイーンのフルハウス』(ハヤカワミステリ文庫)

「ジェミニ―・クリケット事件」クリスチアナ・ブランド(1968)→『招かれざる客たちのビュッフェ』(創元推理文庫)

「刑務所のリタ・ヘイワース」スティーブン・キング(1982)→『ゴールデン・ボーイ』(新潮文庫)

「原島弁護士の愛と悲しみ」小杉健治(1983)→『原島弁護士の愛と悲しみ』(光文社文庫)

「夜明けの光の中に」ローレンス・ブロック(1984)→『夜明けの光の中に』(ハヤカワミステリ文庫)

「死刑囚パズル」法月綸太郎(1992)→『法月綸太郎の冒険』(講談社文庫)

「氷の皇国」深緑野分(2013)→『オーブランの少女』(創元推理文庫)

 最終章のテーマは“罪と罰”です。御覧の通り、重量級の作品の作品が顔を並べます。「死刑前夜」は、某女史の代表長編に影響を与えた落涙の名作。立場を超えた男の友情が胸を打ちます。都筑道夫の訳(註の都筑節!)も素晴らしい。無神論者の作家を射殺したジョン・ノーバディ(日本で言う“名無しのゴンベエ”)の裁判を描いた「誰でもない男の裁判」は、信仰と真実の間で相克する神父を描いて出色。神父はラストで文字通り“神”になってしまいます。「判事と死刑執行人」は、スイスの巨匠・デュレンマットの処女推理小説。後期クイーンも裸足で逃げ出す終盤のプロットのうねりが強烈。老刑事の造形はフラナガンのテナント少佐を思い起こさせます。その後期クイーンのマイルストーンともいうべき中編が「キャロル事件」。シャープな論理も健在ですが、やはりこの作品は登場人物の魅力によるところが大きいでしょう。はからずも容疑者になってしまう青年弁護士ジョン・キャロルと、その妻ヘレナ・キャロル(「すこうし」!)の造形は生涯忘れないと思います。名作中の名作「ジェミニー・クリケット事件」には、二つのバージョンが存在します。悪夢のような雰囲気に身を任せたいのならイギリス版、作者の魔術的な筆さばきを楽しみたいのならアメリカ版を、それぞれおススメ。両方傑作といえば、「刑務所のリタ・ヘイワース」とその映画化『ショーシャンクの空に』。“罪と罰”というテーマからやや離れますが、“刑務所”という舞台を考えると、ここに置きたくてたまりません。「原島弁護士の愛と悲しみ」は、二時間ドラマのような題で損をしていますが、内容は第一級。今回は挙げることができませんでしたが、浜尾四郎の名作「殺された天一坊」と併せて読んでほしい。深いところで響きあうものがあるはずです。「夜明けの光の中に」は、ローレンス・ブロックの看板探偵マット・スカダーもの。シリーズ探偵ものにありがちな甘えを捨て去った、重い読後感を残す珠玉編です。法月綸太郎の「死刑囚パズル」は、新本格の代表的な作品。“死刑直前の死刑囚をなぜ殺したのか”というホワイダニットと『Zの悲劇』顔負けの消去法推理が冴えわたります。本格ミステリの辿ってきた道筋を総ざらえしながらも、新しい道筋をも示したメルクマールと言えるのではないでしょうか。さあ、数々の名作・傑作を差し置いて掉尾を飾るのは「氷の皇国」です。作者は、二〇一〇年、第七回ミステリーズ!新人賞に「オーブランの少女」で佳作入選、それを表題とした短編集が昨年刊行されました。その巻末を務めたのが本作です。正直、その書き振りはまだまだ幼いかもしれません。設定も人物も借り物めいており、肝心の額縁構造も十全に機能しているとは言い難い。しかし、テーマと真摯に向き合おうというその姿勢を買いました。極端な話をするなら『楢山節考』を読んだときの正宗白鳥のような気分にすらなりました。深緑さんには“これ一作でこと足れり”ということにならぬよう精進をお願いいたします。

 さて、この十作ならば、ドストエフスキーとも互角に渡り合えるかもしれません。

 

おわりに

 これまで紹介してきた一〇〇編の中には、絶版・品切になってしまったものや、雑誌等に掲載されたまま入手困難となっている作品もいくつかあります。本来であれば、より入手しやすい作品と差し替えるべきかもしれません。しかし、今回はあくまで作品本位の選定を心がけ、その流通事情はあえて考慮の外に置きました。ご理解いただければと思います。

松井 和翠

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