2「黄金虫」vs「途上」―飛躍へいたる道―

飛躍へいたる道

「黄金虫」エドガー・アラン・ポー(1843)vs「途上」谷崎潤一郎(1920)

 まず、スキーのジャンプ台を想像して下さい。
 そして、ジャンプ台から見える景色を想像して下さい。その景色は、コースの脇に鬱蒼と茂る木々でも、目が痛くなるほどに真っ白な雪面でも、遠方に見える町並みでもかまいません。次は、その景色から目を離し、自分がこれから滑り落ちるコースに目を向けましょう。あなたはまだ余裕がありますから、多少の恐怖感はあっても、視野の隅に先ほどの木々や雪面、遠方の町並みがまだ捉えられているはずです。では、いよいよそのコースを滑り落ちてみましょうか。腰を上げ、体勢を低くし、あなたは飛躍に向けて、コースを滑り落ちていくのです。速度が上がるにつれ、あなたの視界はどんどん狭くなっていきます。最高速度に達するとあなたの視界には途切れるその先端しか目に入りません。そして、飛躍—。

 さて本日取り上げる二作に共通することは、〝飛躍する〟小説であるということです。

 例えば、「黄金虫」は所謂〝暗号もの〟の嚆矢といわれています。暗号そのものにポーの独創はありませんが、それを違和なく小説に組み込んだ手腕はポーの独創といってよいでしょう。しかし、鮮やかな論理を以て暗号が解明された後、「黄金虫」は不思議な飛躍を見せます。それは、穴の中に宝とともにあった人間の頭蓋骨に関して、探偵が下した推理のことです。探偵は「あれを説明するのにたった一つだけもっともらしい方法があるようだな」と、その頭蓋骨に関する推理を提示するのですが、それは「もっともらしい」というだけの推論であって、その推理が果たして真相か否かは読者に判断できません。しかし、ふと気付くとその推理を当然のように受け入れている私たちがいます。なぜ、私たちはこの飛躍をこんなにも素直に受け入れることができたのでしょうか?

 一方、「途上」にも飛躍が見受けられます。

 「途上」は所謂〝プロバビリティ(=可能性)の犯罪もの〟の嚆矢といわれています。偶然を積み重ねることによって、必然的に殺人を成就させるという発想に前例はあるかもわかりませんが、その語り口や魅力的な探偵の創造は谷崎の独創といっていいと思います。中でも後者に関しては、特筆に値するでしょう。外見的な特徴や奇矯な言行を持たないにも拘らず、その人物像を犯人との会話のみで“事件”をいきいきと描出する手際は、発表から百年近く経ったいま読んでも全く古びていません。そして「途上」における飛躍は、その探偵が引き起こします。ちょっとその部分を抜き出してみましょう。

《彼(筆者註:探偵)は突然湯河の手頸を掴つかんでぐいと肩でドーアを押しながら明るい家の中へ引き擦り込んだ。電燈に照らされた湯河の顔は真青だった。彼は喪心したようにぐらぐらとよろめいて其処そこにある椅子の上に臀餅をついた》

 いくら探偵の事務所とはいえ、開けた《ドーア》のすぐ目の前に《椅子》があるとは思えませんから、当然その描写は省略されているわけです。無論、この描写の省略は犯人たる湯河の〝敗北〟を示す省略であるわけですが、それは《十二月も押し詰まった或ある日の夕暮の五時頃》《金杉橋の電車通りを新橋の方へ》《日本橋区蠣殻町三丁目四番地 電話浪花五〇一〇番》といった前半部の詳細な舞台描写とは見事に対称を成しています。つまり、前半の描写が細密であればあるほど、後半の飛躍が読者に当然の説得力を持って迫ってくるのです。と同時に読者は、小説部の前半であれだけ細密に周囲の情景を感知できた湯河が、まさに断罪という飛躍の椅子に座らされたことを知るのです。

 同様のことが「黄金虫」にもいえるのです—、というのはあまりにも見え透いた筆運びでしょう。紙幅も尽きてきたことですし、最後に「黄金虫」の舞台である《南カロライナ州のチャールストンに近いサリヴァン島》の〝細密〟な描写を示して、本日は稿を閉じたいと思います。

《この島は非常に妙な島だ。ほとんど海の砂ばかりでできていて、長さは三マイルほどある。幅はどこでも四分の一マイルを超えない。水鶏が好んで集まる、粘土に蘆が一面に生い繁しげったところをじくじく流れる、ほとんど目につかないような小川で、本土から隔てられている。植物はもとより少なく、またあったにしてもとても小さなものだ。大きいというほどの樹木は一本も見あたらない。島の西端にはモールトリー要塞があり、また夏のあいだチャールストンの塵埃と暑熱とをのがれて来る人々の住むみすぼらしい木造の家が何軒かあって、その近くには、いかにもあのもしゃもしゃした棕櫚の林があるにはあった。しかしこの西端と、海岸の堅い白いなぎさの線とをのぞいては、島全体は、イギリスの園芸家たちの非常に珍重するあのかんばしい桃金嬢マートルの下生えでぎっしり蔽われているのだ。この灌木は、ここではしばしば十五フィートから二十フィートの高さにもなって、ほとんど通り抜けられないくらいの叢林となって、あたりの大気をそのかぐわしい芳香でみたしている》


【底本】
「黄金虫」…『ポオ小説全集〈4〉』エドガー・アラン・ポー(創元推理文庫)/「途上」…『日本探偵小説全集〈11〉名作集1』谷崎潤一郎ほか(創元推理文庫)

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