『バイバイ、エンジェル』(笠井潔)解説「始まりの赤い印」~タツミマサアキ・グレーテストヒッツ(2)~

《しかし、そうした微妙な行き過ぎにこそ、この作家と本格推理小説の接点が現われているとみるべきである》

 『バイバイ、エンジェル』を、そして笠井潔を語る際に、人はどこから語り出すだろうか。例えば、「名探偵」矢吹駆の推理方法「本質直観」から語り始める評者もいるだろうし、本格推理小説としての側面から「首切り」テーマとしての独創性を称える論者もいるだろうし、作者の経歴や哲学的側面から「特権的な死」について解説を加える識者がいてもいいだろう。
 しかし、巽はその方法のいずれをも採らない。無論、解説者としてそれらのトピックに抜かりなく触れているし、その一つ一つの記述も決してポイントを外していないが、しかし、どうやら巽はそれらを『バイバイ、エンジェル』の、そして笠井潔の「本質」だとは考えていないようなのだ。
 では、巽が「本質直観」しているものは何であろうか。ズバリそれは解説表題にも表れている「赤い印」である。《スペインで消息を絶った抵抗運動の闘士イヴォン・デ・ラブナンから、二十年の沈黙をへだてて届いた、「裁き」を告げる手紙》に飾られた《赤い頭文字Ⅰ》、《「赤い部屋」を浸した血だまり》、《壁に書きなぐられたAの血文字》、《破り去られた「赤い死の舞踏会」の頁》――。巽はこれら過剰な《赤》の氾濫に対して《この赤の執着一点によって微妙にバランスが狂わされていることも否定できない》としながらも、そこから転じて《しかし、そうした微妙な行き過ぎにこそ、この作家と本格推理小説の接点が現われているとみるべきである》と語る。
 つまり、こういうことだ。巽は『バイバイ、エンジェル』の欠点(と捉えかねない部分)を敢えて取り上げ、むしろそれこそがこの作品の「本質」であると断じているのだ。否、《堅実な謎解き》の中に放りこまれた「赤い印」こそ、この作家の最も描きたかった部分、描かずにはいられぬという切実な部分であったということを剔抉しているのだ。
 本格推理小説はある意味で最も欠点の指摘しやすいジャンルである。「トリック」の鮮やかさや「ロジック」の正しさ、「名探偵」や「登場人物」の魅力、「密室」や「首切り」などのテーマへの掘り下げ等、一つ一つのパーツをバラして語れるかのように見える。かつて、エラリー・クイーンが各項目別の100点満点採点方式を提案できたのも、そのような側面があってのことだろう。しかし、そうした見方の中で取りこぼされてしまうものが確実に存在する。だから、巽はそういった部分をむしろ《紋章》として見ている。その作家が已むに已まれず表現してしまったもの、表現の意思がなくとも表出してしまうもの。それを読むことが彼の方法であり、己に課した使命のように私には見受けられる。そして、これこそが真摯なる批評家の態度であると私は思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?