「宿題を取りに行く」 巽 昌章

【再びいう。七八年二月まで戻って、佐野洋の発言に対して何か反論するとしたら、何を書くべきだろうか】

 巽昌章は対比の名人である。
 その証拠に、第六〇回日本推理作家協会賞授賞式における《受賞の言葉》を引用してみよう。

《小鷹さんの受賞作(筆者註:『私のハードボイルド』)と拙著とをあわせて読んだ方はどれほどおられるでしょう。さらに、この二冊に加え、たとえば佐野洋さんの『推理日記』と東浩紀さんの『ゲーム的リアリズムの誕生』を併読している方は。これらは、互いに隣接する領域のできごとを見定めようとして書かれてきた、同時代の文章なので、そこに横たわる違いや共通点について思い巡らすだけでも得るものはあるはずですが、そうした横断的な読みに接することは稀です》

 こうした鮮やかな対比の手並みは、巽の手に成る文章には—特にそれが優れたものであればあるほど—必ずといっていいほど立ち現れる。例えば『グリーン車の子供』(創元推理文庫)解説における次の一節。

《能の小方をつとめる世に稀な美少年が、「隅田川」を演じた直後、何ものかに扼殺されるという「美少年の死」はその好例です。雅楽が解き明かす事件の動機は異様なものではありますが、異常心理や観念的な動機に慣れた現代の推理小説ファンから見れば、その着想自体はもはや驚くべきものでもないでしょう。もし同じ話を当事者の視点から耽美的に描くなら赤江瀑か皆川博子、チェスタトン的な抽象論理を際立たせるなら泡坂妻夫か山口雅也、理論武装させるなら京極夏彦か笠井潔、日常というものの危うさを象徴的に描くなら北村薫か加納朋子といった具合に、個性的な書き手によるリメイクを想像することもできます》

 また、『弥勒の掌』(文春文庫)解説の次のような一節。

《活きのいいヒラメが入ったよ、何にする? といわれたとき、綾辻ならムニエル、法月ならいろいろ悩んだ果てにニューヨーク風鉄火巻き(なんだそりゃ)、我孫子は断固として薄造りを命じる。そして、ポン酢とわさび醤油の優劣を論じはじめるのだが、ちょっと目を離すと、「今回だけ洒落で」などといいながら苺ジャムをつけていたりもするだろう。三人の違いとはざっとこんなものだ》

 当然、このような対比の鮮やかさは「宿題を取りに行く」の中にも表れている。

《ここで各人の論の当否や深度を比べる必要はない。大事なのは、これらの『黒死館』評が、井上良夫や中島河太郎とも、江戸川乱歩や澁澤龍彦とも視点を異にしているという事実だ。通常の推理小説評のものさしをあてがおうとしている井上と中島、この小説を珍奇な知識やオブジェの蔵に見立てた乱歩と澁澤。文学観に大きな相違があるとしても、栗本の「遊び」や島崎の「エキス」に近い考え方であり、いずれにしても、笠井ら(筆者註:笠井潔・高山宏・絓秀実)に顕著な探偵の特権化は認められない》

 巽はこのような対比を通して、私たちが過去に取り残してきた《宿題》を明らかにする。「宿題を取りに行く」の中では前掲文がまさにその《宿題》に当たるだろう。《七八年二月》に〈幻影城〉における権田萬治との対談で《陰険な党派性》を滲ませながら《探偵小説の復権》を否定した佐野洋に対し、〈幻影城〉側の栗本薫や島崎博は《遊びの文学》や《探偵小説の「エキス」》という《ぬるい》言葉でしか反論できなかった。その後、〝新本格〟という一大ムーブメントの登場によって、この《宿題》は長らく看過されてきた。それは、新本格の登場により《地すべり的に発想の基盤が変わってしまった》ことで、この《宿題》にほおかむりしても構わない雰囲気が出来上がってしまったのだ。
 しかし、巽は新本格の伴走者として、こうした雰囲気に敢えて水を差す。なぜなら、この《宿題》は過去にあるだけのものではなく、我々の眼前にあるリアルタイムの《課題》でもあるからだ。その証拠に推理小説の読者は〝社会派〟の台頭や〈幻影城〉の登場、〝新本格〟の隆盛といった 《地すべり的》な状況に何度も遭遇して来たではないか。巽が使う対比という手法はその《宿題》《課題》を日の下に晒すための手段なのである。そして、その手法の極限にあるのが、本格推理小説をクライム・ノベルやサイコ・サスペンス、冒険小説やハードボイルドといった広義のミステリと横断的に比較・検討した名著『論理の蜘蛛の巣の中で』である。この本の中では、巽の手によって、本来結び付くはずのないものが結び付き、全く違った方法論で書かれたはずの小説たちの思いもよらぬ共通項が我々の眼前に出現する。『絡新婦の理』(講談社文庫)の解説で巽は、

《これらの傑作が最後に残すイメージは、本来結びつくはずのないものが結びついたことによる惨劇の構図、不可思議な因果関係のタペストリであるはずだ》

と述べているが、これはそのまま『論理の蜘蛛の巣の中で』、いや巽の著作の全てに当てはまる評といえるだろう。巽は《不可思議な因果関係のタペストリ》を見出だすために《論理の蜘蛛の巣》を丁寧に、縦横に、律儀に辿る。また時には自ら糸を吐いて《タペストリ》を描いてみせる。例えば、巽が〝新本格〟を評す時に好んで使う《謎解きの過程が多様な意味を呼び込む時代》という表現は、《密室》や《クローズド・サークル》といったありきたりなガジェットの指摘や《人間が書けていない》といった紋切り型の批判より、遥かに〝新本格〟の持つ特徴を言い当てている。むしろ、巽の指摘によって、私たちの漠然とした〝新本格〟の像が確かに形作られたような感覚すらあるのだ。だとすれば、巽昌章に捧げる賛辞は、次のような一文がふさわしい。

《あなたが—蜘蛛だったのですね》

★巽昌章(一九五七—    )…京都大学推理小説研究会出身の評論家。二〇〇七年、推理小説時評『論理の蜘蛛の巣の中で』で日本推理作家協会賞及び本格ミステリ大賞をダブル受賞。本業は弁護士。
初出…『幻影城の時代』(自費出版)二〇〇六年
底本…『幻影城の時代 完全版』(講談社BOX)二〇〇八年一二月

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