「新カー問答 ―ディクスン・カーのマニエリスム的世界」  松田 道弘

【カーのミステリ作法の基本姿勢はミスディレクションをミステリに応用したものといいかえることができるだろう】

 松田道弘は前掲文の直前に、カーの『夜歩く』から次のセリフを引用している。

《ヴェルノワ――ねえモウロ君。殺人の技術ってのは手品と同じものだよ。手品の技術というものは、何も「目よりも早く手を動かす」なんていう馬鹿らしいものじゃないんだ。相手の注意をよそにそらすということだけなんだよ。片方の手に相手の注意を集めておいて、もう一方の手は外に出しながらも相手を見せず種をとり出す。ぼくはこの原理を犯罪に応用しているんだ》

 これは《カーのミステリ作法の基本姿勢》というより、ミステリ作法そのものと言っていいと思う。つまり、カーにとってミステリとは紙の上で演じる奇術に他ならなかった。そう考えると、色々なことが腑に落ちる。その文体も、ユーモア趣味も、サービス精神も、数々の趣向立て―例えば『ユダの窓』『読者よ欺かるるなかれ』の章題や『九つの答』の脚注など―も、すべて舞台を盛り上げるための演出であったわけだ。また、奇術師たちがカード、ボウル、リング…とそれぞれ得意な演目を持つように、カーもまた密室、人間消失、衆人環視、足跡…といった得意な演目を持っていて、そしてその技術を磨くことに終生心血を注いだのだろう(ただし、ストーリーテラーとしての天賦の才があったからこそ、という点を見落としてはなるまいが)。ということは、こんな風には考えられないか。

「元々ジョン・ディクスン・カーは奇術師になりたかったのだが、奇術師としての才能がないことに気がついて、仕方なくミステリ作家になったのだ」

 無論、これがとんだ与太話であるということは『ジョン・ディクスン・カー 奇蹟を解く男』を読めば一発でバレてしまうことなのだが、我ながら駄法螺といって片づけるには惜しい気がしている。

 尚、余談ではあるが、次の一節を読んで、なぜカーがクリスチアナ・ブランドをあれほど気に入ったのか、少しだけ得心がいった。

《そのためカーはさまざまなアクロバティックな趣向をこらしている。すべての登場人物を被疑者に仕立てる工夫とか、犯行に用いられた兇器がある場所からなくなって別のものにかわっているのを、意地わるく読者の目の前で描写しながらそれと気づかせなかったりするといった趣向に無上の喜びを感じている様子がある》

 無論、クリスチアナ自身の美貌や聡明さに惹かれた部分もあったのではあろうが。

★松田道弘(一九三六―    )…ラジオ関西勤務を経た後、奇術研究家に転身、「松田道弘作品集」で第一二回石田天海賞を受賞する。推理小説にも深い造詣を持ち、特に「新カー問答」はカー評価に一石を投じた好論として有名。
初出…『ミステリ・マガジン』一九七七年一二月~七八年四月
底本…『ヴァンパイアの塔 カー短編全集〈六〉』(創元推理文庫)一九九八年一月


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