7「盲点」サキvs「可哀相な姉」渡辺温 ―価値について―
価値について
「盲点」サキ(1914)vs「可哀相な姉」渡辺温(1927)
「盲点」と「可哀相な姉」に共通するのは、両者とも〝価値〟を巡る物語だということでしょう。そして、二つの物語は、どちらも残酷な童話のようでありながら、どこか現実的な手触りを持つ点において共通しています。
例えば、『ザ・ベスト・オブ・サキⅠ』(ちくま文庫)の訳者・中西秀男は「訳者のあとがき」で次のように語っています。
こうした彼の筆致は、警察長官の息子に生まれながらも、早くに母を亡くしたせいで、二人の(仲の悪い)伯母たちに、極めて厳格な上流階級的しつけを施された反動として現れているでしょう。「盲点」におけるラルワース卿(と彼の思考)の奇妙な実在感はこうした経験に裏打ちされているのです。もしかしたら、実際にこうした人物がいたのかもしれませんね。
一方、「可哀相な姉」の自由への希求も、渡辺温の成育歴抜きには考えられないような気がします。1902年、渡辺温は北海道谷好村に生まれます。一つ上に兄・圭介がいました。のちの渡辺啓助です。家族はセメント技師であった父の仕事の関係で1905年、東京・深川に転居します。当時の深川といえば、所謂、〝深川芸者〟〝辰巳芸者〟の名残りをのこす花街であり、何より〝精神薄弱者〟たちの集まる東京一の貧民窟でした。まさにこの街が《可哀相な姉》を生んでいたのです。
彼らの価値観もこうした環境という名の〝檻〟の中で育まれていったはずです。しかし、〝檻〟の鉄格子は、当人がそこに入っている時点では容易に見えないものです。魚は自らが棲む水の色を知ることはできないのです。それでも、彼らは成長して「盲点」を書き、「可哀相な姉」を書きました。そしてそれこそが、鉄格子の正体だったのです。
1916年、サキはフランスの前線で命を落とします。戦友が煙草に火を点けたことに対し、「その煙草を消せ」とどなった直後、頭を撃ち抜かれたそうです。四十五歳でした。
1930年、渡辺温は兵庫県西宮の病院で死去しました。谷崎潤一郎宅へ原稿の催促に赴いた後、夙川の踏切で乗っていたタクシーが貨物列車と衝突、脳挫傷を負ったのでした。二十七歳でした。
彼らを早逝に至らせたものは、そこに何らかの〝価値〟を見出していたのでしょうか。無論それが、神の意志なのか、天の配剤なのか、誰も知ることはできないのですが――。
【底本】「盲点」…『ザ・ベスト・オブ・サキⅠ』中西秀男・訳(ちくま文庫)/「可哀相な姉」…『アンドロギュノスの裔』(創元推理文庫)
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