文学と探偵小説に関する覚え書Ⅰ


 「文学」は、少なくとも「文学」を考えるときにのみ現れる幻想ではない。それは確かに存在する。しかし、その定義乃至範囲乃至領域を規定しようとすると、途端にそれらの境界は漠とし始める。

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 文学という漠としたものと探偵小説の関わりについて考えるとき、私がまず想起する言葉は開高健のそれである。

《昔から言われている通り、純文学というものはなにかというと、これは実験物理学、実験室での物理学です。エンターテインメントというのはなにかというと、応用物理です。実験室で完成した論理なり設備なり発見なりを工場へ持ち込んで大量生産にかかる応用物理です》

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 開高の言葉に従えば、ポーが『モルグ街の殺人』で行ったことは実験物理学である。そして、そこで発見された論理と設備と発見とを引き継いで、ドイル、チェスタトンらは探偵小説という応用物理学を開始したのだ。

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 しかし、ポーが実験室で剔出したクリスタルは、長い時の中で摩耗し、本来持っていたはずの意味すら摩滅しつつある。

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 例えば、ポーが『バーナビー・ラッジ』書評で指摘したことは、推理小説におけるフェアプレイの重要性ではない。文学におけるフェアプレイの重要性である。

(続)

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