1 「オイディプス王」vs「春の雪解」―盲目の効用―

盲目の効用

「オイディプス王」ソポクレス(前427?)vs「春の雪解」岡本綺堂(1918)

 世界最古の探偵小説「オイディプス王」の最大の謎は“なぜオイディプスは自らの目を貫くのか”ということです。

 無論、そこには、〝冥府を訪れたときどのような顔をして父と母を見ればよいのか〟という極めて劇的な理由が示され、その理由を至極劇的に呑みこむことを読者は求められます。しかし、このテキストに触れ、幾度となくオイディプスの境遇に同情を寄せた読者、涙を流し、運命の厳しさに慄然とした読者としては、その理由の具体に考えを巡らさずにはいられません。ここで考察する具体というのは、物語における〝盲目の効用〟についてです。

 盲目という要素は果たして物語、殊に小説においてはどのような役割を果たすのでしょうか?

 盲目の人が登場する物語は古今枚挙に暇がありません。しかしその物語の多くが、ある共通の特性を持っていることは誰にでも指摘できるでしょう。例えば「耳なし芳一」。小泉八雲の『怪談』の一編としても著名なこの話は、芳一という琵琶の名手が因果な災厄に巻き込まれていく、なんとも痛ましい物語です。ただ、ここではその因果な成り行きを一旦脇において、盲人であるが〝故に〟琵琶の長けているという芳一の特性に注目していただきたいのです。〝風が吹いたら桶屋が儲かる〟ということわざを持ち出すまでもなく、盲目の人は古くからその視力を失う代わりに、極めて発達した聴力や人智を超えた別の能力を持つことが繰り返し描かれてきました。盲目であるから聴力が発達するのか、盲目であるから発達せざる得ないのかはシチュエーションによって様々ですが、一つの〝型〟のように扱われていることは否定できないでしょう。いや、〝型〟という表現は適当ではないかもしれません。むしろ盲目の人が視力に代わる別の大きな力を持つことを、読者は暗黙裡に期待している面すらあるのではないでしょうか。

 例えば、子母澤寛の『ふところ手帖』の一編の一侠客でしかなかった座頭の市が、日本を代表する剣客スターとなったのは、そういった期待を一身に背負った結果といえるかもしれません。座頭市は盲目であることによって、優れた聴力ばかりではなく、神業の如き剣技を持ったヒーローとして成長させられていった、と。

 実は「オイディプス王」にも、このような人物が現れています。預言者テイレシアスです。この預言者は、オイディプス王の非難に屈して〝テーバイの不作と疫病の原因は王その人にある〟という預言に成した人物ですが、このテイレシアスもまた盲目であることによって、その預言の信憑性が担保されている、といっても的外れではないような気がします。

 そういえば、『半七捕物帳』の一編「春の雪解」でも徳寿という盲目の按摩が重要な役割を果たしていました。この徳寿が、辰伊勢という女郎の寮の前で寮の下女にしつこく引きとめられていることから物語は始まります。半七はこの捫着から、隠された犯罪の匂いを嗅ぎつけるわけですが、そのきっかけとなったのが、徳寿がなぜかその辰伊勢の寮に上がりたがらないということ、そしてその理由なのです。半七にそれを尋ねられた徳寿は次のように答えます。

《「ところが、旦那。どうもあすこは工合ぐあいが悪いんでしてね。いえ、別に代をくれないの何のという訳じゃないんですが、なんですかこう、気味の悪いような家でしてね」》

 この回答は、質問に対するただの返答ではありません。徳寿が意識せずして、半七に与えた〝預言〟なのです。そして、その〝預言〟の効力が徳寿の盲目という特性によって担保されていることはいうまでもありません。

 そう考えていくとオイディプスが自らの目を貫いた理由もわかってくるのではないでしょうか。オイディプスは、死後冥界で巡り合う両親のためだけに目を貫くのではなく、〝目を貫く〟という行為によって、視力を失う代償に、自らにその視力に代わる能力を付与するのです。

 では、オイディプスが求めた能力とはなんだったのでしょうか?論理の飛躍が許されるならば、それはテイレシアスのように〝預言〟する能力を得るためではなかったか(そう考えるとテイレシアスが“激昂”してオイディプスに“預言”を与えたということは意味深長です。なぜならオイディプスも〝激昂〟しやすい自らの性質によって身を滅ぼしていくのですから)。さらに飛躍するなら、神に迫り、あわよくばその地位を奪わんとするための行為ではなかったか、と—。

 そして、その試みは「コロノスのオイディプス」で一つの達成を迎えるのです。

【底本】
「オイディプス王」…『ギリシア悲劇〈2〉ソポクレス』ソポクレス(ちくま文庫)/「春の雪解」…『半七捕物帖〈1〉』岡本綺堂(光文社時代小説文庫)

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