3「女か虎か」「三日月刀の促進士」vs「藪の中」―終わらないリドル・ストーリー―

終わらないリドル・ストーリー

「女か虎か」「三日月刀の促進士」F・R・ストックトン(1882)vs「藪の中」芥川龍之介(1922)

 ストックトンが「女か虎か」を物したことについて、私はそれほど畏敬の念を抱きません。この世の中にはその人が成さなくとも、遅かれ早かれいつか誰かが成したであろう仕事があり、「女か虎か」もまたそのような仕事だと考えるからです。数年前の芥川賞候補作で羽田圭介が書いた「メタモルフォシス」を読んだときも、同じような感想を抱きました。〝SM〟という〝如何にも〟な主題を、〝如何にも〟日本人らしい求道精神と結びつけた佳作で、大笑いしつつ読ませてはいただきましたが。ただ勘違いしないでいただきたいのは、私が「女か虎か」や「メタモルフォシス」を蔑んでいるのではないということです。いつか誰かがやらねばならぬ仕事に一番先に手を付け、そしてその仕事をきちんと全うできる人にはそれ相応の敬意を払わねばなりません。
 しかし、「三日月刀の促進士」となると、これは話が違います。「女か虎か」の反響を受けて書かれたというこの物語は、前作「女か虎か」の真相を明かさないばかりか、あらたなリドル(=謎)を読者に突きつけ幕を閉じます。つまり、新たなる謎の登場によって、それ以前の謎は箱に入れられ封をされてしまうわけですが、同時にその“新たなる謎”も次の作品では再び箱の中に入れられてしまう可能性をも示唆しているのです。これは、画期的な発明といわねばならないでしょう。なぜなら「三日月刀の促進士」は、リドル・ストーリーを“女か虎か”という二者択一の設問から、“女か虎か”的な状況、もっと具体的に言えば“女”と“虎”という相対する存在を如何に釣り合わせるかという設問にスライドさせてしまったのですから。これにより、リドル・ストーリーは読者が“探偵”を担うフーダニットから、解決自体が謎に終わるという結末それ自体が“意外な真相”と化したのです。

 しかし、それによってリドル・ストーリーからフーダニット性(=真の解決の探求)が奪われたわけではありません。例えばそれは、芥川龍之介の「藪の中」に数多くの“探偵”たちが挑んでいる事実を挙げれば十分に理解していただけるのではないでしょうか。試みにその“探偵”たちと彼らの推理の成果を以下に掲げておきましょう(ただし、このリストはあくまで私の把握する範囲のものに過ぎないことは明記しておきます)。

・中村光夫「「藪の中」から」(1970)
・福田恆存「「藪の中」について」(1970)
・大岡昇平「芥川龍之介を弁護する」(1970)
・大里恭三郎『芥川龍之介―『藪の中』を解く』(1990)
・上野正彦『「藪の中」の死体』(2005)
・恩田陸「「『藪の中』の真相」についての一考察」(2010)

 残念ながらここで、その推理の具体や当否を検討するだけの紙幅はありません。興味のある方は、(少々手間はかかりますが)是非出典を当たって、可能であれば私が配列した順に読んでみてください。まるで、バークリーの『毒入りチョコレート事件』を読むような高揚感に襲われることは私が請け合います。
 そういえば、『毒入りチョコレート事件』も…。おっと、紙幅が尽きてしまいました。そろそろ、この頁の幕は閉じねばなりません。リドル・ストーリーに真の幕切れは訪れなくとも。

【底本】
「女か虎か」「三日月刀の促進士」・・・『謎の物語』紀田順一郎・編(ちくま文庫)
「藪の中」・・・『日本探偵小説全集〈11〉名作集1』芥川龍之介ほか(創元推理文庫)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?