『緑衣の鬼』(江戸川乱歩)解説~タツミマサアキ・グレーテストヒッツ(5)~
《この書物が人々を驚かせた理由のひとつは、乱歩の評論活動が井上の甚大な影響の下にあったことを再認識させた点だったのだ》
《江戸川乱歩推理文庫》の第64巻『書簡 対談 座談』には乱歩と井上良夫による往復書簡「探偵小説論争」が収められている。ここでは、乱歩が終生に渡って愛した『赤毛のレドメイン家』が俎上にのぼっているが、井上との意見の交換によって乱歩の『レドメイン』観が焦点化され、次第に洗練されていく過程が実に面白い。
乱歩が『赤毛のレドメイン家』を《万華鏡が、三回転するかのごとき鮮かに異なった印象を受けることに一興を喫するであろう》と激賞したことは著名だが、つまりこれは『レドメイン』が再読三読に耐えうるということだ。乱歩は、木々高太郎と甲賀三郎の間で交わされた《探偵小説芸術論争》で木々の《芸術論》に一定の理解を示しながら、自身の立場としては《一人の芭蕉》の出現を待望してやや悲観的に中立を守った。しかし、乱歩は同時に《一人の芭蕉》の出現により自らの論が敗れることが《本望》であるとも語っている。この述懐に嘘はないだろう。乱歩は文学として優れた探偵小説が現われることを恐らく待望していたはずだし、その理想として例えばドストエフスキーや谷崎潤一郎の小説群が彼の脳裏にあったのではないだろうか。事実、乱歩はドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』や『罪と罰』を《何度読み返したかわからない》といっている。これは重要なことだ。なぜなら、乱歩は探偵小説が一個の文学として読まれ得るために、少なくとも再読味読に耐えることが必要であると直感していた可能性があるからだ。乱歩が『レドメイン』をあれだけ激賞したのも、そこに探偵小説が文学へと歩み寄る一条の光を見つけたからかもしれない。
乱歩は《江戸川乱歩推理文庫》の第61巻『蔵の中から』の表題エッセイの中で、今後期待する批評家として井上良夫と中島親を挙げている。特に井上に関しては、欧米の諸作品に対する知識とその批評眼を称えているが、その一方で国内の作品に対する及び腰な姿勢も指摘している。つまり、これは欧米の諸作品に傾ける情熱を国内の諸作品にも向けてほしいという願いであり、それがこの国の探偵小説を豊かにする一因となると見た乱歩のラブコールであるだろう。それを踏まえれば、『幻影城』建立の献辞に、彼の名が選ばれたのも当然かつ必然と言えよう。
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