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『文豪ストレイドッグス外伝 綾辻行人VS.京極夏彦』朝霧カフカ

90年代から積み上げられてきた文化の重みを感じさせられる【72】

 私は『文豪ストレイドッグス』について、何の知識も持っていない。であるから、『文豪ストレイドッグス』を既知の人々からすると、以下の文章は的外れなものにうつるかもしれない。しかし、私はあくまでもミステリとして本作を読ませてもらったのでご容赦願いたい。さて、本作に特別な閃きはない。設定・文体・キャラクタ・構成、どれを取ってみても然程の独創性はなく、いずれのパーツも既視感に溢れている。しかし、そうした点が欠点として映らないのは、90年代から現在に至るまでに築き上げられてきた文化の上に本作が成り立っているからだろう。新本格ミステリやライトノベル、バトル系マンガや近未来SF等、それらの特質を巧みにパッチワークして仕立て上げられている(これは決して悪い意味ではない)。そして本作はミステリとしてみれば、特殊設定ミステリのバリエーションである。特殊設定ミステリにも色々あるが、本作は作品世界のルール設定に重点が置かれる異世界ミステリではなく、探偵や犯人の特異な能力設定に重点が置かれる異能バトルミステリである。突き止めた犯人を必ず事故死させる《殺人探偵》綾辻行人と、《憑き物落とし》を駆使して対象を操る京極夏彦。この二人の異能者の対決が物語の中核を為す。そして、このタイプの作品を成功に導くためには、以下の三つの条件が必要である。第一にこの異能をどれだけ使い倒すことができるか。第二に完璧に思える異能の盲点を如何に見つけるか。第三に第一と第二の条件を満たすために如何に序盤で段取りを仕込めるか、である。そして、第一・第二の条件は綾辻行人の側に限れば成功しているとみなして良い。これは―辻村というキャラクタの存在ありきではあるが―実にうまく出来ており、正直この部分だけでも十分に読む価値はある。ただし、京極夏彦の側はやや甘い。そもそも推理小説史において、偏執的なまでに追究されてきたテーマこそ“操り”なのだ。我々はもはやこの程度のスケールでは満足できない体になってしまっている。もう少し大風呂敷を広げてもよかったのではないか。そして、最も惜しかったのが第三条件。アイディアとしては悪くないが、如何せん序盤の仕込みが足りない。作者としてはポリティカル・スリラーとしての勢いを殺したくなかったのかもしれないが、着想自体は悪くないのだから、仕込みさえしていれば作品の充実度は格段に上がったはずで、かえすがえすも残念である。そういった部分がありながらも、トータルでは佳作といってよいと思った。

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